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愛知機械工業 : ミニ英和和英辞書
愛知機械工業[あいちきかいこうぎょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あい]
  【名詞】 love 
: [き, はた]
 (n) loom
機械 : [きかい]
 【名詞】 1. machine 2. mechanism 
機械工 : [きかいこう]
 【名詞】 1. machinist 2. mechanic
機械工業 : [きかいこうぎょう]
 (n) the machine industry
: [たくみ]
  1. (n,adj-na) (1) workman 2. artisan 3. mechanic 4. carpenter 5. (2) craft 6. skill 7. (3) means 8. idea
工業 : [こうぎょう]
 【名詞】 1. (manufacturing) industry 
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance

愛知機械工業 : ウィキペディア日本語版
愛知機械工業[あいちきかいこうぎょう]

愛知機械工業株式会社(あいちきかいこうぎょう)は、名古屋市熱田区に本社を置くエンジンマニュアルトランスミッションなど自動車部品・産業用部品を中心としたメーカー。終戦直後から1960年代まではオート三輪ヂャイアント」を、1960年代には「コニー」(#かつての車種を参照)などの軽自動車を製造・販売していた。2012年3月から、2013年現在日産自動車の完全子会社。
== 概要・歴史 ==
愛知時計製造株式会社(現在の愛知時計電機)から航空機部門が分離した、愛知航空機株式会社を前身とする。終戦により民需転換。
1946年以降、「ヂャイアント」や「コニー」の名で知られるオート三輪・軽商用車メーカーとして知られ、オート三輪には水冷エンジンや丸ハンドル、全天候型キャビンをいち早く採用、軽商用車もミッドシップ(当時はアンダーフロアと呼んだ)レイアウトを採用するなど、先進的な設計で知られた。
1961年には全日本自動車ショウに試作軽乗用車「コニー・360コーチ」を出品し、乗用車市場への進出を試みたり、超小型車「コニー・グッピー」を発売するなど積極策を展開したが、これらが業績には結びつかず、1962年9月決算で1.4億円の営業赤字を計上し無配転落(復配は1975年3月期)、メインバンクの旧・日本興業銀行の仲介で、日産自動車と1962年11月に技術提携、1965年3月には本格的な業務提携に入り、生え抜きの二代目社長であった五明得一郎社長は相談役に退き、日産自動車の購買担当常務であった堀庫治郎が社長就任、日産の持株比率は1966年9月末には15%となり、筆頭株主となった。
日産自動車としては、当初から軽自動車メーカーの一社ではなく車両やエンジンの生産委託先・協力メーカーの一社として愛知機械工業を活用する方針であり、日産出身社長としては初代の堀庫治郎も、日産の横浜第一工場長から愛知機械入りした後任の小畠三郎も生産技術者であった。そして日産の指導のもと、原価管理などのノウハウが導入され、以前はプリンス自動車同様に総評系であった労働組合も「民主化」の結果、当時の日産自動車社長の川又克二と親密な関係にあった塩路一郎が率いる自動車労連の傘下に入るなど「日産化」が急速に進行した。
創業以来の自動車生産については、1965年のコニー・360ワイド以降は新型車の開発も無く、同業メーカーのホンダスズキダイハツなどを中心とした熾烈な新型車開発競争・販売合戦からは完全に脱落してしまい、「利益確保優先」と称して積極的な販売促進策も講じられなかったことから、結果的に「再建の足かせ」とまで評されるようになり、1970年10月には自社ブランドでの自動車生産の撤退を余儀なくされて特別損失40億6800万円を計上し、堀社長は引責辞任した。
なお、愛知機械工業の販売系列であった「日産・コニー店」は、1970年10月に自社ブランドでの自動車生産から撤退と同時に、日産自動車が生産販売する新規車種のチェリーの発売に合わせて、それまでの「日産・コニー店」の社名であった「日産コニー○○販売」から「日産チェリー○○販売」に社名変更されて「日産・チェリー店」に販売系列が変更された。
後に、日産・チェリーが3代目へのフルモデルチェンジを機にパルサーに車名変更された後も、従来通り「日産・チェリー店」の名称で存続され、広告上では「パルサー販売会社」又は「パルサー販売」と称されていたが、昭和60年代前半から平成初期にかけて、大半の「日産・チェリー店」が「日産・プリンス店」に統合されており、現在の日産・レッドステージ系列販売会社の礎のひとつとなる。
自社ブランドでの自動車生産から撤退以降は、日産自動車の小型車のエンジン・トランスミッションの生産を手がけ、更にはバネットセレナラルゴサニートラックサニーキャブ/チェリーキャブパオの完成車開発・生産までをも行ったが、1999年2月、車両事業継続が困難となったため、ユニット専門工場として再スタートを切るべく車両生産からの撤退が発表され、後に日産自動車が発表した経営再建計画「日産リバイバルプラン」に合流する形となり、2001年に港工場が閉鎖(同時に日産自動車村山工場日産車体京都工場も閉鎖)されて完成車生産から撤退した。
なお、当初は、永徳工場を閉鎖して生産設備を港工場に移設することになっていたが、工場閉鎖のみの場合より費用がかかるために方針を転換して港工場の閉鎖となった。
そして、港工場で生産されていたC24型セレナは2001年1月より日産自動車栃木工場に順次移管された。
現在は、エンジン・トランスミッションの生産専業に徹して完成車生産は行っていないが、他メーカーへも販路を広げている。例を挙げると、三菱・ランサーエボリューションVIIIの6速マニュアルトランスミッションは愛知機械製であり、日産以外の自動車企業との初の取引でもあった。現在では、軽自動車用のCVT(無段変速機)の他、前述の三菱以外にマツダフォード・モーター現代自動車ルノープロトンにもマニュアルトランスミッションを納入している。
2007年12月に発売された日産・GT-R用のGR6型デュアルクラッチトランスミッションも愛知機械製である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「愛知機械工業」の詳細全文を読む




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