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忌部氏 : ウィキペディア日本語版
忌部氏[いんべうじ]

忌部氏(いんべうじ)、のち斎部氏(いんべうじ)は、「忌部」または「斎部」をの名とする氏族
天太玉命を祖とする神別天神)の古代氏族で、「忌部(いんべのおびと)」、「忌部(いんべのむらじ)」、「忌部宿禰(いんべのすくね)」のち「斎部宿禰」姓を称した。古代朝廷における祭祀を担った氏族である。
本項では、部民としての忌部(いんべ)についても解説する。
== 概要 ==
氏族名の「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。しかしながら、勢力を増す中臣氏に奈良時代頃から押され始め、固有の職掌にも就けない事態が増加した。平安時代前期には、名を「斎部」と改めたのち、斎部広成により『古語拾遺』が著された。しかしその後も状況は変わらず、祭祀氏族の座は中臣氏・大中臣氏に占有されていった。
部民としての忌部には、朝廷に属する品部(ともべ = 職業集団)と忌部氏の部曲(かきべ = 私有民)の2種類が存在した。品部である忌部には、玉を納める出雲、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあった。それらの品部の部民も忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。事績の少なかった中央氏族と異なり、こうした地方氏族は随所に跡を残している。
== 出自 ==
古事記』や『日本書紀』では、天岩戸の神話において天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天児屋命(あめのこやねのみこと)が祭祀関係に携わったことが記され、両神は天孫降臨においてもともに付き従っている。そのうち天太玉命が忌部氏の祖、天児屋命が中臣氏の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。なお、記紀では天児屋命の方が天太玉命よりも重要な役割を担っているが、これは編纂当時の中臣氏と忌部氏の勢力差を反映しているとされる。逆に忌部氏側の『古語拾遺』ではその立場は逆転している。
天太玉命の出自については、『古語拾遺』では天太玉命は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子であるとし、『新撰姓氏録』でもこれにならうが、『古事記』や『日本書紀』に出自の記載はなく真偽は明らかでない。
== 歴史 ==
忌部氏は、5世紀後半から6世紀前半頃にその地位を確立したとされ、当初は「忌部(おびと)」を名乗った。大和国高市郡金橋村忌部(現 奈良県橿原市忌部町)を本貫(根拠地)とし、現在も祖神の天太玉命を祀る天太玉命神社式内名神大社)が残る。また、出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた品部を掌握して物資を徴収したほか、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わった。
人物の初見は『日本書紀大化元年(645年)条〔『日本書紀』大化元年(645年)7月庚辰(14日)条。〕で、忌部首子麻呂が神幣を賦課するため美濃国に遣わされた。天武天皇元年(672年)〔『日本書紀』天武天皇元年(672年)7月壬辰(3日)条。〕の壬申の乱に際しては、忌部首子人(首または子首とも)は将軍大伴吹負に属し、荒田尾直赤麻呂とともに大和の古京を守備した。天武天皇9年(680年)〔『日本書紀』天武天皇9年(680年)正月甲申(8日)条。〕には、子人は弟の色弗(色夫知/色布知)とともに(むらじ)のカバネを賜った。さらに天武天皇13年(684年)〔『日本書紀』天武天皇13年(684年)12月己卯(2日)条。〕には、他の連姓の50氏族とともに宿禰(すくね)のカバネを授かった。持統天皇4年(690年)〔『日本書紀』持統天皇4年(690年)正月戊寅朔(1日)条。〕には持統天皇の即位にあたって色弗が神璽の剣・鏡を奉じ、慶雲元年(704年)〔『続日本紀』慶雲元年(704年)11月庚寅(8日)条。〕には子人が伊勢奉幣使に任じられた。
その後は中臣氏とともに伊勢奉幣使となる例となったが、次第に中臣氏の勢力に押され、奉幣使補任は減少した。そのため天平7年(735年)〔『続日本紀』天平7年(735年)7月庚辰(27日)条。〕に忌部宿禰虫名・鳥麻呂らは忌部氏を奉幣使に任じるよう訴え、訴えは認められた。しかし天平勝宝9年(757年)6月〔『続日本紀』天平宝字元年(757年)6月乙未(19日)条。〕には中臣氏だけが任じられ他姓を認めないこととなった〔ただし、天平宝字年間(757年-765年)には忌部宿禰人成・呰麻呂らが奉幣使に任じられており、その後も忌部氏側から訴えがあったものと見られている(, )。〕。その後は中臣氏(のち大中臣氏)の他氏排斥が著しくなり、忌部氏固有の職掌にさえ就けない例が生じることとなった。
延暦22年(803年)〔『日本逸史』延暦22年(803年)3月乙丑(14日)条(『国史大系 第6巻 日本逸史・扶桑略記』 <国立国会図書館デジタルコレクション>56コマ参照)。〕には忌部宿禰浜成の申請によって「斎部」と名を改めた。中臣氏との争いは、大同元年(806年)〔『日本後紀』大同元年(806年)8月庚午(10日)条。〕には「両氏相訴」という事態にまで発展し、同年の勅命により祈祷は両氏、常祀以外の奉幣使も両氏を公平に用いることと定められた。そして大同2年(807年)には斎部広成によって古語拾遺が著され、斎部氏の伝統と中臣氏批判がなされた。
しかし以後も斎部氏は中臣氏の勢力に押され、歴史の表舞台には見えなくなる。なお弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』では、神別天神)に「斎部宿禰」として、高皇産霊尊の子の天太玉命の後裔である旨が記載されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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