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張賓 : ウィキペディア日本語版
張賓[ちょう ひん]
張 賓(ちょう ひん、? - 322年)は、西晋から五胡十六国時代にかけての武将である。石勒の軍師として、後趙朝成立の立役者となった。は孟孫、生まれは趙郡中丘。乾隆14年(1749年)に編まれた『南和県志』によれば、中丘県張相の人ともいう。『晋書』に短い伝(石勒載記付伝張賓載記)がある他、『資治通鑑』にも記載がある。
==経歴==
晋からの仕官の勧めを断って仕える君主を探していたが永嘉の乱の最中、河北を通過した石勒を見込んで、「私は多くの武将を見てきたが、この人だけが一緒に大事をなすことが出来そうだ」といい、剣を引っさげて石勒軍の軍門で大声で仕官を願い出たという。石勒軍に参加して、初めは石勒も能力を認めていなかったが、次第次第に献策が認められ、以後彼の筆頭参謀として活躍した。彼の下で、軍功曹、右長史・中塁将軍を務めた。後趙勃興後は、濮陽侯など、要職を歴任し、朝政を総覧した。
張賓の父の張揺は西晋の中山太守であったことから、若い頃から勉学に励み、経書、史書に通じ、かねてから自身を前漢の功臣張良になぞらえ、劉邦のような名君に巡り会うことを渇望していた。そして、石勒に出会うや彼を意中の人として仕えたが、石勒も彼の才能を認めると重宝し、常に敬って「右侯」と呼び、名を呼ばず、彼に会うときは容姿を正したという。(晋書、資治通鑑巻九一)
以後、石勒の最も信任の厚い幕僚として、政略から軍事に至るまでたびたび石勒に献策し、また謙虚で部下へは面倒見が良く、石勒軍の中での評判もすこぶる良かったという。後趙成立後は家臣筆頭として廟堂に重きをなした。
そのため、322年に張賓が亡くなると石勒は、自ら葬式に臨席し、号泣して「天はわしの天下獲りをお望みにならぬのか!どうして、わたしの右侯をこれほど早く奪うのか!」と、天を恨んでひどく悲しんだ。後任の参謀・程遐の無能さを嘆き、廟堂では常に「右侯がわしを捨ててしまったので、この程度の男を参謀にしなければならない。こんなひどいことがあるだろうか!?」と泣いていたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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