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式亭三馬 : ミニ英和和英辞書
式亭三馬[しきていさんば]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しき]
  1. (n,n-suf) (1) equation 2. formula 3. expression 4. (2) ceremony 5. (3) style 
: [み]
  1. (num) three 
: [うま]
 【名詞】 1. (1) horse 2. (2) promoted bishop (shogi) 

式亭三馬 : ウィキペディア日本語版
式亭三馬[しきていさんば]

式亭三馬(しきていさんば、安永5年(1776年) - 文政5年閏1月6日1822年2月27日))は、江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師滑稽本浮世風呂』『浮世床』などで知られる。名は菊地泰輔、字は久徳。通称は西宮太助。戯号は四季山人・本町庵・遊戯堂・洒落斎(しゃらくさい)など。名が久徳で字が泰輔とする文献もある〔棚橋正博:『式亭三馬』新装版、ぺりかん社(2007)p.2〕。
== 生涯 ==
浅草田原町(現・東京都台東区雷門一丁目)の家主で版木師、菊地茂兵衛の長男に生まれた。晴雲堂と号する父は、後に三馬の作品の版木を彫った。祖先は八丈島の神官だったと言う。
幼少の頃から読書を好いたと、成人後に回想している。
天明4年(1784年)8歳から、寛政4年(1792年)16歳まで、本石町(現・中央区日本橋本石町)の地本問屋翫月堂掘野屋仁兵衛方に住み込み、出版界の事情を知った。父が版木師で奉公先が版元……、戯作者へと歩み、寛政6年18歳のとき、黄表紙『天道浮世出星操』などを、親友の春松軒西村新六から初出版した。平賀源内・芝全交・山東京伝を慕った。
寛政9年(1797年)頃、本屋の蘭香堂万屋太治右衛門の婿養子となり、作家と出版屋を兼業した。寛政11年に出した『侠太平記向鉢巻』で火消人足らが騒ぎ、処罰され、翌年は新刊を出せなかったものの、名は広まった。妻が亡くなって文化3年(1806年)万屋を去り、古本屋を開き、戯作に励んだ。
故掘野屋仁兵衛の娘を後妻に迎えた。文化6年の『浮世風呂』がヒットした。文化9年、一子虎之助(式亭小三馬)を得た。
古本屋をやめ、文化7年(1810年)(34歳)から売薬の販売製造を始めた。著書で薬を宣伝し、薬の客が読者にもなり、暮らしが豊かになった。酒に親しんだ。前からの病弱が募った。そして書き続けた。三馬は戯作の執筆をする傍ら、自ら肉筆浮世絵も描いている。代表作として「三味線を持つ芸妓図」が挙げられる。本図は、立てた三味線を持つ大島田の芸妓が、片膝を立てて振向いている様子を描いており、自画賛を入れている。
文政5年(1822年)に没した。歓誉喜楽奏天信士。深川の雲光院寺中の長源寺(現・江東区三好二丁目)に葬ったが、関東大震災後の大正15年(1926年)、墓は碑文谷(現・東京都目黒区碑文谷一丁目)の正泉寺に改葬され、現存する。
著作には古典の翻案や既存作品の模倣・剽窃が混ざるにせよ、多作だった。黄表紙から書き始め、洒落本・合巻・滑稽本・読本と、当時の作家がそうだったように、いろいろな形式の地本を書き、主題も郭咄・仇討ち・武勇伝・歌舞伎もの・狂歌と広範囲だったが、中でも江戸庶民の日常を描いた滑稽本類が評価されている。短気ながら親分肌の人柄で、為永春水・楽亭馬笑・古今亭三鳥・益亭三友らを門弟にした。
なお、1806年の『雷太郎強悪物語』が合巻の始まりとは、三馬の自己宣伝で、先発があったと言う〔鈴木敏夫:『江戸の本屋(上)』、中公新書(1980)p.163 ほか〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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