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市岡輝夫 : ミニ英和和英辞書
市岡輝夫[し]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [おっと]
 【名詞】 1. (hum) (my) husband 

市岡輝夫 ( リダイレクト:岡八朗 ) : ウィキペディア日本語版
岡八朗[おか はちろう]

岡 八朗おか はちろう、本名・市岡 輝夫〔いちおか てるお〕、1938年(昭和13年)4月16日 - 2005年(平成17年)7月26日)は、喜劇俳優2003年(平成15年)4月16日以前の芸名は「岡 八郎」。兵庫県尼崎市出身。長女はゴスペル歌手市岡裕子
== 略伝 ==
父は喜劇役者で幼少から芸事に触れる。
1958年(昭和33年)、宝塚映画の大部屋に入るが1年で退社。花菱アチャコに師事、師匠の薦めで1959年(昭和34年)4月に吉本新喜劇へ第1期生として入団。入団当初は本名の「市岡輝夫」のまま吉本新喜劇の前身である吉本ヴァラエティステレオコントの舞台に上がる。
1960年(昭和35年)4月に漫才に転向し浅草四郎(当時四郎は相方が死去し相手を探していた)とコンビを組むが1966年に四郎が死去、一時千土地興行に移籍したこともあったが、後吉本興業に戻り役者を諦めきれず復帰して座長に就任。主に花紀京船場太郎山田スミ子原哲男、のちには木村進間寛平らと共に活躍した。
その風貌から「奥目の八ちゃん」と親しまれ、「くっさー」、「えげつなー」、「隙があったらかかってこんかい!」等のギャグを多数持つ。そのギャグは定番として、いまだに明石家さんまなどが演じている。
新喜劇では、調理帽をかぶった昔ながらの大衆食堂の店主、はちまきシャツ腹巻ニッカボッカの工事現場の労働者などといった出で立ちで登場。"二枚看板"の花紀とは特に息の合ったかけあいを披露して、多くの新喜劇ファンの笑いと涙を誘った。
しかし舞台上での立ち振る舞いとは逆に、実は極度のあがり症で、出番前の極度の緊張を紛らわすために多量の飲酒することが多くなり、私生活でも「一にも二にも三にも健康法は酒です」と本人が語る程の酒好きであった。結果的にこれが祟り、長年アルコール依存症を患うこととなった。またアルコール依存症の他にも私生活でのトラブルも多く、30歳で結核を患い、1993年(平成5年)には胃癌1995年(平成7年)には急性膵炎1996年(平成8年)には自宅で転倒し脳挫傷に、さらに妻の自殺、長男(アルコール依存症だった)の急死と不幸が続いた。アルコール依存症克服後も娘の裕子に会いに渡米した帰りの機内で飲酒し、これを知った裕子に絶縁を宣言されたこともあった。
脳挫傷の後遺症は記憶障害という喜劇役者としては致命的なダメージを背負うことになり、台詞が覚えられず、以後事実上の引退状態になった。とはいえ岡の舞台に立ちたいという本人の意志は強く、2002年(平成14年)12月18日に芸能生活45周年記念リサイタル「岡八我王(ガオー)伝説」をなんばグランド花月で行った。この公演では弟子のオール阪神・巨人の巨人らとの新喜劇、帰国した裕子との父娘漫才を披露した。
2003年(平成15年)には心機一転、芸名を「岡 八郎」から「岡 八朗」に変えるなど、舞台に対する意欲をみせていたが、2005年(平成17年)7月26日肺炎による呼吸器不全のため、兵庫県尼崎市内の病院で死去した。戒名は笑輝院一道禅圓居士。
死去する直前の2005年(平成17年)7月16日には大阪市で開いたオール阪神・巨人の漫才コンビ結成30年記念公演に出演。舞台では阪神・巨人、けんた・ゆうたらの思い出話を披露した。これが最後の舞台であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岡八朗」の詳細全文を読む




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