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市営基町高層アパート : ミニ英和和英辞書
市営基町高層アパート[しえいもとまちこうそうあぱーと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n-suf) city 
市営 : [しえい]
 【名詞】 1. municipal management 
: [き, もとい]
 【名詞】 1. basis 
: [まち]
 【名詞】 1. (1) town 2. (2) street 3. road 
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
高層 : [こうそう]
 【名詞】 1. upper 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

市営基町高層アパート : ウィキペディア日本語版
市営基町高層アパート[しえいもとまちこうそうあぱーと]

市営基町高層アパート(しえいもとまちこうそうアパート)は、広島県広島市中区基町にある大規模集合住宅住宅団地基町不良住宅街原爆スラム)解消を目的に造成された〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 1ページ〕。同様の目的で、同時に計画され、同様の構造を持つ、県営長寿園高層アパート、高層アパート建設以前に建てられた基町の中層アパート群についても合わせて扱う。
独特な構造や規模などより、現代建築としても評価され、建築の教科書にも掲載されている。2013年(平成25年)度のDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選出された〔2013年度DOCOMOMO JAPAN 選定作品 - DOCOMOMO JAPAN〕。
== 建設前 ==
江戸時代は、現在の旧太田川まで広島城の外堀内だった〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 2ページ〕。1887年(明治20年)に、『広島開墾の地』を意味する基町の地名が付いた〔。第二次世界大戦まで広島は軍都で〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 3ページ〕、1945年(昭和20年)の広島市への原子爆弾投下時点で、広島市には第5師団が置かれ、西部総軍司令部、歩兵・輜重・砲兵部隊、陸軍病院、幼年学校などが設けられ〔、基町高層アパートがあるあたりには第二次世界大戦当時、広島陸軍病院が置かれていた〔『広島新史 資料編III』の「第二次世界大戦時軍用施設配置図」〕。それらの施設は、原爆投下により壊滅した〔。

ファイル:Hiroshima map circa 1930.PNG|1930年(昭和5年)頃の広島
ファイル:Hiroshima_daini_rikugun_byouin_ato-2.JPG|広島第二陸軍病院跡石碑

1946年(昭和21年)の都市計画で、当地を含めた基町の西半分を中央公園予定地とすることを決定〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 4ページ〕〔平和文化 No.181_13 広島平和記念資料館平成24年度第1回企画展 基町 姿を変える広島開基の地 - 公益財団法人 広島平和文化センター〕。また、1951年(昭和26年)の丹下健三による広島平和記念公園構想案では、現在の広島市中央公園や当アパートのあたりを含め、平和公園として構想されていた〔ヒロシマの記録-平和都市法50年 未完の「平和記念公園」 復興の夢と希望託す - 中国新聞 1999年6月22日〕。
そのため旧軍用地は、1949年(昭和24年)の広島平和記念都市建設法成立により〔『広島新史 行政編』 67ページ〕、正式に都市整備に利用できるようになった〔『広島新史 行政編』 69ページ〕。
しかし現実は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)6月より、広島市の緊急住宅対策として「十軒長屋」と呼ばれる住宅を建設〔。広島市・広島県を合わせて、1815軒の住宅を建築した〔『高層アパート設計に参加 藤本さんに聞く』中国新聞 2010年7月24日 27ページ〕。また、1947年(昭和22年)頃より、基町地区にバラックの不法住宅が建ち始めた〔『広島県大百科事典 下巻』669ページ〕。当初は、被爆前から住んでいた住民のみだったが、他地区の再開発などによる立ち退きで基町周辺に集結し、1960年(昭和35年)頃には900軒の不法建築が建っていた〔〔『図説戦後広島市史』291ページ〕。
そのような経緯で原爆スラムと呼ばれる住宅密集地、基町不良住宅街が誕生〔〔。多くの火災が発生し、路地が細くて消防車が入りにくいことにより、大火事に発展しやすい地域になった〔〔。
とくに1967年(昭和42年)7月27日に発生した火災の被害は大きく、焼失家屋93戸・焼失面積4,085m²に及ぶ火災になり〔、その火災では道具を取りに戻った1人の老女が焼死した〔『まるで紙クズ 燃えた原爆スラム 「道具・・・」火中へ老女 引きつる顔に襲う熱風』中国新聞 1967年7月28日 14ページ〕。
最終的に、1961年(昭和36年)から1976年(昭和51年)までに、計14回の火災が起き、403戸が焼失した〔被爆65年 ヒロシマ基町 復興史映す街並み 戦災者支え近代化へ先駆 - 中国新聞 2010年7月26日〕。
1956年(昭和31年)11月に、公園予定地の一部を公営住宅用地として用途変更し、中層住宅を1,894戸建設する計画を決定〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 10ページ〕。実際に、1955年(昭和30年)頃から1968年(昭和43年)までに、県と市が中層アパートを930戸(市17棟(630戸)・県13棟(300戸))供給したが〔〔検証 ヒロシマ 1965~95<3> 基町再開発|検証ヒロシマ|ヒロシマ平和メディアセンター - 中国新聞 2012年2月7日〕、まだ地域内には約2,600戸の不良住宅があり〔『基町地区再開発事業事業記念誌』 40ページ〕、住宅不足の解消には至らなかった。1967年(昭和42年)の火災当時、原爆スラムの扱いについても、県が住宅地区改良法による解消を目指すのに対し、市は特別立法による解消を目指し、方向性の食い違いにより進展していなかった〔『住宅対策置き去り 基本方針で県・市が対立』中国新聞 1967年7月28日 8ページ〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「市営基町高層アパート」の詳細全文を読む




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