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崇徳帝 ( リダイレクト:ホンタイジ ) : ウィキペディア日本語版
ホンタイジ[みかど]

皇太極(ホンタイジ、 転写:Hong taiji)は、後金)の第2代皇帝。君主としての称号は満州語スレ・ハン(Sure han)、モンゴル語セチェン・ハーン。皇太極は皇太子黄台吉とも表記される。三田村泰助は明の陳仁錫『山海紀聞』や李朝の『朝鮮王朝實錄 仁祖實錄』などを根拠に、本名は「ヘカン」であったとする説を提示している〔三田村泰助「再び清の太宗の即位事情に就いて」(『東洋史研究』7-1, 1942)。三田村は、朝鮮実録に見える「黑還勃列」という漢字表記を「hekan beile」と満州語に還元し、hekanを本名、beileを満州貴族の称号とした。ダイチン・グルンの記録は一貫して名を「ホンタイジ」とのみ記す。〕。
皇太子とも表記されることから、ヌルハチの生前から後継者と目されていたと考える向きもあるが、ヌルハチが死の際にそれに触れていないことと矛盾する。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えていなかったので、後継者も自分と同じように周囲の推戴によって選ばれるべきである、と認識していたと考える方が妥当であろう。史書(『清実録』)にはホンタイジは順当に何事もなく即位したように書かれているが、このあたりの記述には潤色があると考えられる。
なお、「ホンタイジ」という単語は上述の通り「皇太子」や「王」、「福王」等の意を含んでおり、満州族以外のユーラシア大陸北方遊牧民の間で広く使われた君主号の一種であり、彼以外にも「ホンタイジ」を名乗った者は多く、同時代だけを見ても複数いる。例えば、ホンタイジの死後、乾隆帝によって滅ぼされたジュンガルの歴代王は「ホンタイジ」の称号を名乗っていた。
==生涯==
ホンタイジがヌルハチの後を継ぐと、朝鮮が後金に叛いて親明政策を取るようになった。後金は明と断交しているために、当然朝貢が出来なくなっていたが、朝貢の利益は後金にとって非常に重要だったので、それまでは朝鮮を抜け道として間接的に明と通商していた。しかし朝鮮が叛いたことによってこの道が絶たれ、後金の国内には出荷することのできない人参の毛皮などが山積みになってしまった。また西のモンゴルチャハル部も明と同盟を結び、後金に敵対するようになった。
この状況を打開するため、ホンタイジは天聡元年(1627年)に従兄のアミン(阿敏)を朝鮮へ遠征させ、これを屈服させた(丁卯の役)。同じ年に明領の寧遠城と錦州城を攻撃したが、これは敵将袁崇煥の知るところとなり、敗退した(後に宦官を買収して袁崇煥を誅殺させた)。
また、天聡6年(1632年)、ホンタイジは(達海)に命じて満州文字を無圏点文字から有圏点文字に改良した。
天聡5年(1631年)にはチャハル部のリンダン・ハーンに勝利し、天聡9年(1635年)にはチャハル部を組み入れ、玉璽をリンダンの息子から譲り受けた。1636年、ホンタイジは玉璽を手に入れたことを機に、満州族漢族モンゴル族の三族から推戴を受けた。すなわち国王から正式に皇帝となり、国号を大清国(Daicing gurun)とし、併せて崇徳改元した。ホンタイジは皇帝即位の前後から重臣である兄や従兄たちを失脚させ、権力を自身に集中させている。また、明に倣って六部を創設し、漢族官僚を登用することで、それまでの部族連合体から中華的な中央集権帝国への移行を目指した。
1637年、ホンタイジの皇帝即位を認めないことを表明した朝鮮を親征して再び討ち(丙子の役)、朝鮮と明の冊封関係を絶つことに成功し、朝鮮を清の冊封国とした。
東北部を完全に掌握したホンタイジは明の領内への侵攻を目指すが、要衝山海関の守りは堅く、明の征伐を果たせぬまま1643年に急死した。死因については、脳出血等の疾患によるものだったのではないかとする研究がある。遼寧省瀋陽市の北にある昭陵に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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