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山口高志 : ミニ英和和英辞書
山口高志[やまぐち たかし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [たか]
 【名詞】 1. quantity 2. amount 3. volume 4. number 5. amount of money 
: [こころざし]
 【名詞】 1. will 2. intention 3. motive 

山口高志 : ウィキペディア日本語版
山口高志[やまぐち たかし]

山口 高志(やまぐち たかし、1950年5月15日 - )は、兵庫県神戸市長田区出身の元プロ野球選手投手)、野球指導者。
== 経歴 ==

=== プロ入り前 ===
次男として生誕。3500gと大きな赤ん坊であった。高志という名前は山口が生まれる前から父が考えていた名前で、「男なら、志を高く持て」という意味を込められて付けられる。
野球を始めたのは小学4年生の頃で、地肩の強さを買われて投手と外野手を任された。
高取中では投手で3番。このとき甲子園で見た滝川高校のプレーに感動し、同校を目指そうとするも、学費が高いことから両親に遠慮して市立神港高校に進学する。
高校入学当初、骨の発育が体の発育に追いついておらず、肋間神経に激しい痛みが走り出すようになる。野球の練習などとても無理で、いつの間にか不登校となり、須磨ノ浦や自宅近くの高取山で時間潰しをするようになる。希望を見失っていた同年夏、高木太三朗が同校監督に就任、ここで転機が訪れる。高木が熱心に部活に誘ったことで、もう一度野球をやる気になった。治療の甲斐もあって、同年秋からは猛練習に耐えられるほどになる。
2年時には春の兵庫県大会で2試合連続ノーヒットノーランを記録した。3年時には春夏連続で甲子園出場。春の選抜では、1回戦で別府鶴見丘に圧勝。2回戦で尾道商井上幸信と投げ合うが、延長10回の投手戦の末0-2で惜敗。夏の選手権では2回戦(初戦)で秋田市立高に敗退した。
卒業後は関西大学へ進学。関西六大学リーグでは在学中7度優勝、以下のような記録を残す。
* 通算64試合登板、46勝11敗、防御率0.92、497奪三振
* ノーヒットノーラン 1971年秋 対同志社大3回戦
* リーグ記録
 * 通算最多勝利:46勝
 * 年間個人最多勝利:18勝
 * リーグ戦 21連勝
 * 通算最多完封勝利:19勝
 * 1季最多完封勝利:6勝(2回)
 * 通算最多奪三振:497個
 * 1季個人最多奪三振:100個
 * 5試合連続2ケタ奪三振
 * 68イニング連続無失点
 * 6試合連続完封
1970年の第19回全日本大学野球選手権大会準決勝では、優勝候補筆頭の法大と対決、今も選手権記録として残る延長20回の熱戦となる。法大は横山晴久池田信夫の両投手が継投、対する関大は山口が単独で投げ抜き、最後は3x-2でサヨナラ勝ちした。しかしさすがに疲労が残り、決勝では登板を回避したため、エース榎本直樹を擁する伏兵の中京大に苦杯を喫し、優勝はならなかった。
1972年の4年生次には第21回全日本大学野球選手権大会第3回明治神宮野球大会の優勝にチームを導く。また同年の第1回日米大学野球選手権大会においても、フレッド・リンウォーレン・クロマティ、後にテキサス・レンジャーズから全米1位で指名されたロイ・スモーリーらを擁するアメリカ代表チームに対し日本チーム4勝のうち3勝(初戦はクロマティを5打数無安打に抑え、13奪三振で完投勝利。第7戦は1安打完封勝利)を挙げ、最高殊勲選手賞を受賞〔『ベースボールマガジン2007冬季号』ベースボール・マガジン社、2007年、77頁〕。こうした活躍から、大学の先輩である村山実にちなんで「村山二世」の異名が付けられた〔特別インタビュー「社会人野球」と「プロ野球」 - 山口高志氏に聞く - NTT西日本シンボルチーム〕。
大学卒業を前にした1972年10月、突然プロ入り拒否を宣言。理由は「プロでやっていく自信がなかった」こと、自身の身長の低さへの不安、大学4年時に挙げた好成績による達成感からであった〔。しかし、同年のドラフト会議ヤクルトアトムズが4位にて強行指名する。
ヤクルトからの指名を受けたが意志は変わらず入団拒否し、翌年春に松下電器産業に入社。同社野球部に入部した。「世界の一流企業・松下なら、プロに入らずとも定年までコツコツ働けて安定した収入が得られる」というのが入社理由だった。松下電器では2年連続都市対抗野球に出場。1974年第45回大会では新日鐵堺に補強され準決勝に進出、33イニング無失点の快記録を達成する。しかし、サラリーマンとして働きつつ野球をやるうちに「仕事も野球も中途半端になるより、思い切って最高峰で。」と気持ちが野球に傾くようになり、1974年のドラフト会議で、阪急ブレーブスから1位指名された際にはすんなり入団を決意した〔『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社〕。背番号は前年まで阪急に在籍していた神港高校の先輩宮本幸信がつけていた「14」となった〔日めくりプロ野球09年1月 【1月26日】1975年(昭50) 222勝右腕よりスゴイ!剛速球山口高志、3球で「モノが違うで」 - Sponichi annex〕。阪急電鉄本社契約として獲得した選手は山口と矢形勝洋(1958-1960年投手、後に球団常務)の2人だけである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山口高志」の詳細全文を読む




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