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寺山修司 : ミニ英和和英辞書
寺山修司[てらやま しゅうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

寺山修司 : ウィキペディア日本語版
寺山修司[てらやま しゅうじ]

寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本歌人劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」「覗き見マニア」「エロスのアナキスト」「政治嫌いの革命家」「ジャンルを超えたコラージュの達人」「あしたのジョーを愛した男」「三島由紀夫のライバル」「生まれながらのトリック・スター」「サブ・カルチャーの先駆者」の異名〔文藝春秋 本の話WEB 〕〔- 寺山修司 Shuji Terayama (前編) - 〕をとり、上記の他に俳人詩人演出家映画監督小説家作詞家脚本家随筆家評論家俳優写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。
== 人物 ==

=== 少年時代 ===
1935年昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。ハツと元妻・九條今日子によれば、青森県弘前市紺屋町生まれとされる。当人は「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記しているが、寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現・三沢市)。
1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。 八郎出征のため、ハツと青森県三沢市へ疎開。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預ける。青森市マリア幼稚園入園。
1945年(昭和20年)、青森大空襲によりハツとともに焼け出される。9月に八郎がセレベス島戦病死したとの公報を受け取る。終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現・三沢市)の古間木駅前(現・三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働く。米軍差し押さえの民家に移る。
1948年(昭和23年)、三沢市の古間木中学校入学。ハツが福岡県米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市内の叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られる。青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。
1949年(昭和24年)、中学2年生で京武久美と友人になる。句作をしていた京武の影響から俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句童話学校新聞に書き続ける。
1950年(昭和25年)、青森市営球場藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。
1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。「山彦俳句会」を結成し、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。京武久美俳句雑誌『牧羊神』創刊、高校卒業まで編集・発行を続ける。同期生に沢田教一がいた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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