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宝暦治水事件 : ミニ英和和英辞書
宝暦治水事件[ほうれきちすいじけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たから]
 【名詞】 1. treasure 
治水 : [ちすい]
  1. (n,vs) flood control 
: [こと]
 【名詞】 1. thing 2. matter 3. fact 4. circumstances 5. business 6. reason 7. experience 
事件 : [じけん]
 【名詞】 1. event 2. affair 3. incident 4. case 5. plot 6. trouble 7. scandal 
: [くだん, けん]
 【名詞】 1. matter 2. case 3. item 

宝暦治水事件 : ウィキペディア日本語版
宝暦治水事件[ほうれきちすいじけん]
宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸時代中期に起きた事件。幕命によって施工された木曽三川木曽川長良川揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害した。
== 宝暦治水 ==

宝暦治水とは、江戸時代宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川長良川揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。
木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。
1735年(享保20年)、美濃郡の代官である井沢惣兵衛が三川の調査の上で分流工事を立案したが、その時は幕府の許可が下りなかった。このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。ただし、それ以降輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害が激化していった。1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重は薩摩藩主島津重年御手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。この普請は幕府の指揮監督の下、薩摩藩が資金を準備し人足の動員や資材の手配をする形態であった。また地元の村方を救済するため、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。工事は二期に分けられ第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧が行われ、第二期は治水を目的とした工事が行われた。第二期の工事は輪中地域の南部を四つの工区に分けて行われた。一之手は西高木家が奉行を務め、桑原輪中(岐阜県羽島市)から神明津輪中(愛知県祖父江町)までで、木曽川と長良川を繋ぐ逆川 (岐阜県)に木曽川から長良川への流入を阻む洗堰を設け、木曽川に猿尾堤を築く工事を含んだ。二之手は笠松郡代が奉行を務め、森津輪中(愛知県弥富市)から田代輪中(三重県木曽岬町)を工区とし、筏川の開削と浚渫が行われた。三之手は東高木家が奉行となり墨俣輪中(岐阜県大垣市)から本阿弥輪中(岐阜県海津市)を担当として、長良川と揖斐川を繋ぐ大榑川に洗堰を設けて長良川から揖斐川への流入を抑える工事を含む。四之手は北高木家が奉行で金廻輪中(岐阜県海津市)から長島輪中(三重県桑名市)に至る地域を含み、木曽川と揖斐川の合流地点に食違堤(食違堰)を設けて木曽川から揖斐川への流入を抑えることを狙った。
揖斐川西岸への水の流入を防ごうとすると長良川の常水位が上がり、その沿岸地域が水害の危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入を減らそうとすると木曽川沿岸で溢流の可能性が高まるという濃尾平野の西低東高の構造により輪中同士および尾張藩の利害が対立し、河川工学や土木工学が未発達だったこともあっていずれの工事も河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりすることはできなかった。
1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を労働に当てて救済する目的もあり、通常の公儀普請に比べて割高な賃金を工事に関して経験や技術の乏しい地元住民に支払うことを余儀なくされた。また、工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった。さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあったことにより当初予想されたよりも大量の費用が必要となった。
宝暦治水は設計、計画は幕府によって行われるお手伝い普請であり、幕府側の総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宝暦治水事件」の詳細全文を読む




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