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太寿堂鼎 : ミニ英和和英辞書
太寿堂鼎[たいじゅどう かなえ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

寿 : [ことぶき]
 【名詞】 1. congratulations! 2. long life! 
: [どう]
  1. (n,n-suf,n-pref) (1) temple 2. shrine 3. hall 4. (2) prefix to building meaning "magnificent" 
: [かなえ]
 (n) three-legged kettle

太寿堂鼎 : ウィキペディア日本語版
太寿堂鼎[たいじゅどう かなえ]

太壽堂 鼎(たいじゅどう かなえ、1926年5月14日 - 1996年8月28日)は、日本の法学者。元京都大学名誉教授姫路獨協大学教授。専門は国際法
== 人物 ==
1926年5月14日、京都市に生まれる。1939年から3年間、宗教家の大谷光瑞の門下生として京都、台湾にて修業を積み、1943年10月、専門学校入学者資格検定試験に合格。同年12月より1945年10月まで、徴用工及び現役兵として勤務した〔『領土帰属の国際法』p.241〕。
終戦後、京都大学を卒業して国際法の研究を開始。最初に取り組んだのは領域法の理論であり、1955年の助手論文「国際法上の先占について――その歴史的研究」においては思想史経済史を参照しつつ、縦断的に国際先占原則の成立と展開の跡を研究した(領域法の社会学的研究)。次いで1957年の論文「極地と帰属」では、横断的に領域取得に関する実定国際法規を確認し、これを極地帰属の問題に適用した(領域法の解釈学的研究)〔『領土帰属の国際法』あとがき〕。
研究方法は、国際法の未開拓分野を周到・緻密に考察し、そこから導いた一般理論を具体的な領土問題に適用し、発展させるという手堅い手法であった。上述の助手論文「国際法上の先占について――その歴史的研究」(1955年)は、1.18世紀までの時期に、イギリス等の主張する「実効的先占の原則」がスペインポルトガル植民国家の主張する「発見優先の原則」を抑えて、無主地取得の原則として確立したこと、その支配の正当づけは所有権の基礎を労働(耕作)に求めることによってなされたこと、しかし2.19世紀に舞台がアフリカに移ると、先占の要件である占有の重点が「土地の使用・定住」から「地方的権力の確立」へ移り、また支配の正当づけは優越したヨーロッパ文明の観念によって行われるようになったことを明らかにした〔『領土帰属の国際法』まえがき〕。
この理論を具体的な領土問題に適用した論文が「極地の帰属」(1957年)、「竹島紛争」(1966年)、「明治初年における日本領土の確定と国際法(一)」(1977年)等である。これらの中で、南極については、極地帰属の原則としては「実効的先占の原則」以外になく、その結果南極の大部分はなお所属未定であるとし、将来の紛争回避のため国際管理下に置く必要性を説いた。竹島については、朝鮮15世紀初めから450年にわたり鬱陵島を空棄の地とする政策をとっており、竹島に関する知見に疑いがあること、これに対し日本では鎖国後も竹島への渡航は禁止されていなかったことを指摘し、次いで国際法的評価として、日韓両国が古くからの事実に基づいて領有を争っているケースについては、国際司法裁判所判例から見て、1905年以後の竹島に対する日本の実効的支配の継続に意義が認められるという議論を展開した〔『領土帰属の国際法』まえがき〕。
1959年2月、ミシガン大学に留学し、ビショップからアメリカ流の実証的研究方法を学んだ。この際、当時の日本ではほとんど研究されていなかった主権免除の問題の重要性に気づき、1960年10月に帰国してこれに関する論文を執筆。続いて国家責任、国際裁判、条約法など国際法の他の分野にも手を広げ、広い分野で業績を挙げた。その後もたびたび外国を訪れ、1963年9月にはイギリスの政治制度の視察のために出張(同年10月帰国)。1967年5月には政府のオブザーバーとして国連国際法委員会に出席するため、スイスイタリアオーストリアオランダに出張した(同年6月帰国)。その後、1974年10月にハーバード大学に赴いて研究(1975年8月帰国)、1976年8月に国際法協会(International Law Association)第57回大会出席のためスペインに出張(同年9月帰国)、1978年8月に同58回大会出席のためフィリピンに出張。1980年3月に国際法研究調査のためアメリカ、イギリス、オランダ、スウェーデン西ドイツフランスに出張(同年4月帰国)、同年8月に国際法協会第59回大会出席のためユーゴスラビアに出張(同年9月帰国)するなど、国際的な場で活躍した〔『領土帰属の国際法』p.241〕。
1983年、京都大学法学部長を務めるさなか病に倒れるも、2年後には学会に復帰。1990年3月に京都大学を定年退官後、姫路獨協大学法学部教授で教鞭をとるが、胸部疾患が再発し入退院を繰り返した。1994年6月24日付けで竹本正幸に手紙を送り、領土に関する本の出版を構想していること、はしがき目次を書いたことを「はしがき」と共に伝えた。しかし1996年8月18日に死去し、生前に本として出版される機会がなかった。その後、高林秀雄に「太壽堂君は、あれほど立派な論文を書きながら、本として出版していないのは、本当に勿体ない。あとは、君に頼むよ」と言われた竹本が、姫路獨協大学の戸田五郎らの協力を得て『領土帰属の国際法』を出版した〔『領土帰属の国際法』あとがき。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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