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大関増業 : ミニ英和和英辞書
大関増業[おおせき ますなり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大関 : [おおぜき]
 【名詞】 1. sumo wrestler of second highest rank 
: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
: [ぞう]
 (n) increase
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance

大関増業 : ウィキペディア日本語版
大関増業[おおせき ますなり]

大関 増業(おおせき ますなり)は、江戸時代後期の大名下野国黒羽藩の第11代藩主。
黒羽藩の藩政改革にあたったが、家臣の反発を受けて隠居に追い込まれた。また、医学書・科学技術書の編纂で名を残している。
== 生涯 ==
天明元年(1781年)、伊予国大洲藩主・加藤泰衑の八男として生まれる。寛政10年(1798年)9月1日、大洲藩において600石を与えられる。
文化8年(1811年)8月24日、第10代藩主・大関増陽の養嗣子となる。同年9月11日、加藤邸から大関邸に移る。同年10月1日、将軍徳川家斉にお目見えする。養父増陽は28歳、それに対して養子の増業は31歳と、養父子の関係にありながら年齢差が逆であるという異例の養子縁組であった。ただし、幕府に対しては、養父増陽の年齢を30歳、増業の年齢を27歳と届け出ている。その背景は、増陽が藩政改革に失敗して家臣団から責任を問われたことが挙げられるが、養子縁組の構想自体は藩士にはほとんど知らされることがなく、突然の決定であったという。このとき、黒羽の家臣団は養子に迎えるときに与えられた加藤家からの持参金を互いに山分けしたとまで言われている。加藤家からの持参金は2000両であった。
文化8年11月24日、養父増陽の隠居により、家督を相続する。同年12月11日、従五位下土佐守に叙任する。文化9年5月14日、堀田正敦の次女と結婚する。同年7月18日、江戸を出発し、7月24日、初めてお国入りする。道中の喜連川において実兄喜連川恵氏と会談している。同年11月24日、藩士らに藩政改革の方針を示す。黒羽藩はわずか1万8000石の小藩であり、そのために財政が破綻寸前となっていたからである。当時、黒羽藩の年内における年貢の取立ては2万俵、金銭は2000両とされていたが、これはおおよその見当に過ぎず、実際の収益を誰も知らなかったのである。増業はこれに呆れ、大急ぎで役人に命じて厳格に調べさせた。すると、収益はその半分をわずかに過ぎる程度しかなかった。
そのため、増業は厳しい倹約令を出して経費節減に努めた。それと同時に、藩における商人から多額の金を借用した。財政再建のために増業が行なったことは、換金性の高い農産物の栽培と那珂川水運の整備、及び治水工事などであった。つまり穀物や野菜などは勿論のこと、煙草木綿胡麻蕎麦などの栽培を大々的に奨励したのである。ところが、川の水運工事に対して家臣団が猛反対した。
文政5年(1822年)10月3日、本丸御殿が全焼、同年10月26日、増業は火災に関しての藩士の賞罰を決定する。しかし、藩士は公正でないとして反発する。文政6年5月15日、重臣から隠居することを申し入れられる。その際、これまでの失政41ヵ条を突きつけられた。反対派の動きもあったものの、押さえつけられた。その結果、増業は隠居に同意する。事実上の藩主押込である。同年9月18日、重臣から隠居後は政治や財政に対し、一切口出しをしないといった6ヵ条を突きつけられた。文政7年7月8日、病気を理由に増業は隠居し、養子増儀(養父増陽の次男)に家督を譲った。
その後、増業は水戸藩徳川斉昭松代藩真田幸貫ら、江戸時代後期の名君と呼ばれる面々と交流しながら、学問に熱中した。もともと、学問好きだったため、藩主時代に記した『創垂可継』をはじめ、隠居時代においても医学書の『乗化亭奇方』や、後世において科学史・技術史書として評価された故実書の『止戈枢要』など、多くのジャンルに及ぶ著作を行なっている。
弘化2年(1845年)、65歳で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大関増業」の詳細全文を読む




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