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堀田正敦 : ミニ英和和英辞書
堀田正敦[ほった まさあつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほり]
 【名詞】 1. moat 2. canal 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 

堀田正敦 : ウィキペディア日本語版
堀田正敦[ほった まさあつ]

堀田 正敦(ほった まさあつ)は、近江堅田藩、のち下野佐野藩の藩主。江戸幕府若年寄佐倉藩堀田家分家6代。陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男。
== 生涯 ==
宝暦5年7月20日(1755年8月27日)に陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男(第十七子)として仙台に生まれる。幼名は藤八郎。母は側室・性善院。安永4年(1775年)、中村姓を与えられ中村村由(なかむら むらよし)を名乗る。天明6年(1786年)3月26日、堀田正富の娘婿となり、堅田藩1万の藩主となる。なお、堀田家に養子入り以前から子供がおり、次男で陸奥一関藩主となった田村宗顕は堀田家養子入り2年前の天明4年(1784年)に生まれている。
寛政2年(1790年)6月10日、若年寄になり、以降は当時の老中松平定信寛政の改革を助けたが、後に定信とその子・定永が陸奥白河藩から堀田宗家が治める下総佐倉藩への転封を画策した際には、佐倉藩主・堀田正愛を助けて定信父子と争い、その企てを阻止した。
寛政8年(1796年)に甥の仙台藩主・伊達斉村が後継者を正式に決めずに死去した時に、実兄・伊達重村の正室・観心院や甥の三河刈谷藩主・土井利謙と共にその処理に関与し、跡を継いだ伊達周宗(当時乳児)の後見役となる。ただし、仙台藩の藩政にことさら関与したわけでなく、あくまで幕府や仙台藩双方の仙台藩の治世不安解消が目的であり、蝦夷巡検の際には松平定信に周宗の後見を託している。また、文政11年(1828年)に仙台藩を相続した伊達斉邦の後見も務めた(仙台市史・通史5・近世3)。他に佐倉藩主の堀田正愛が病気で政務が執れなくなると、その後見役も務めた。
和漢の学識に富み、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めている。また蘭学者を保護するなど学者を厚遇し、自らも鳥類図鑑『禽譜』と解説書『観文禽譜』(後述)を編纂するとともに、『観文獣譜』(東京国立博物館所蔵)、『観文介譜』(の博物書、写本を東洋文庫が所蔵)も執筆している。『禽譜・観文禽譜』はじめ正敦旧蔵資料には「堀田文庫」の蔵書印が押されており、明治初期に『観文禽譜』が東京国博に収蔵されているなど、一部の資料は外部へ流出している。
文化3年(1806年)、3,000石加封され、堅田藩1万3,000石となる。文化4年(1807年)、蝦夷地(現在の北海道)へのロシア人侵入を視察するため松前藩へ出立。文政9年(1826年)、下野国安蘇郡植野村(現在の栃木県佐野市、初代堅田藩主・堀田正高の旧領)への陣屋替えを命ぜられる。なお滋賀郡堀田領は引き続き支配するが、土豪・堅田郷士が実質管轄下となる。文政12年(1829年)、3,000石加封され、佐野藩1万6,000石となる。
天保3年(1832年)1月29日、致仕(退官)。五男の正衡が家督を継いだ。同年6月7日死去。豊嶋郡下渋谷村(現在の東京都港区麻布台)の臨済宗瑞泉山祥雲寺塔頭香林院に葬られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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