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大河内伝次郎 : ミニ英和和英辞書
大河内伝次郎[たいが]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

大河 : [たいが]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
河内 : [はのい, かわち]
 【名詞】 1. Hanoi 
: [うち]
 【名詞】 1. inside 
: [でん, てん, つたえ]
 【名詞】 1. legend 2. tradition 3. life 4. biography 5. comment 6. communication
: [つぎ]
  1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station 

大河内伝次郎 ( リダイレクト:大河内傳次郎 ) : ウィキペディア日本語版
大河内傳次郎[おおこうち でんじろう]

大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎1898年2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年7月18日)は、日本映画俳優。本名は大邊 男(おおべ ますお)。
戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた〔『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)〕。サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。悲愴感ただよう演技とスピード感溢れる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした〔新撰 芸能人物事典 明治~平成「大河内伝次郎」の項 〕〔世界大百科事典 第2版「大河内伝次郎」の項 〕。当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前訛りで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決め台詞で人気を得た。戦後は大物の助演者として活躍した〔『映画検定 公式テストブック』p.151〕。京都大河内山荘を造営したことでも知られる。
==来歴==

=== 俳優へ ===
1898年(明治31年)2月5日福岡県築上郡岩屋村字大河内(現・豊前市大河内)に、父・晋と母・アキの5男として、9人兄妹(5男4女)の8番目に生まれる〔『日本映画俳優全集・男優篇』p.98-100〕。大邊家の先祖は中津大江郷の藤原孝範で、代々岩屋村で医者をしていた〔『実録大河内伝次郎 日本映画の青春』(ライオンズマガジン社)〕。父はその十六代目で、藩主の侍医を勤め、維新後は町医者を開業した人であった〔富士正晴著『大河内傅次郎』p.8-12〕。父方の祖父はやはり医者の大辺耕斎で、祖母は小倉藩医だった末松玄洞の六女・シンである〔。また、母方の祖父は中津藩士で儒学者の大久保麑山(通称は逕三〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus「大久保麑山」の項 〕)〔である。
小学校卒業後、大分県立臼杵中学校に入学〔。しかし、1908年(明治41年)5月に父が死去し〔、家運が傾いたため、すぐ就職のできる商業学校への転校をよぎなくされ、1913年(大正2年)に中学を3年で中退し、大阪に暮らす次兄・弘を頼って大阪商業学校予科に入学した〔〔富士正晴著『大河内傅次郎』p.37-49〕。同校では剣道部に入り、学業とともに剣道に精を出した〔。1915年(大正4年)に本科に進み、1918年(大正7年)に卒業〔。神戸高等商業学校に受験するが失敗し〔、弘の経営する日光社で会計部長として働いた〔。やがて日光社の取引先である明治屋の仕入部に勤めるが、1923年(大正12年)9月1日関東大震災で会社を辞めて引き上げ、再び日光社に勤めた〔〔富士正晴著『大河内傅次郎』p.51-57〕。
同年、劇作家を志望して倉橋仙太郎が主宰する新民衆劇学校に第二期生として入校する〔。もちろん脚本家志望だったが、倉橋に「脚本を書くにしても俳優の体験も必要だ」と言われたことがもとで俳優に転向し、翌1924年(大正13年)4月に大阪市中央公会堂での公演『天誅組』などに正親町勇の名で出演した〔。1925年(大正14年)5月、研究生は新民衆座の名で帝国大学で野外劇を公演し、大河内も室町次郎の名で出演した〔。
同年、聯合映画芸術家協会設立第2作で、新民衆座の出演で製作した衣笠貞之助監督の『弥陀ヶ原の殺陣』に座員の一人として、目明し紋治役で出演。原作は大河内が西方弥陀六の筆名で書いた四幕の舞台脚本『若き日の忠次』である〔。撮影は新民衆座が宝塚中劇場に出演中の6月に行われたが、これを終えると東上し、7月1日に倉橋の第二新国劇の旗上げに参加。第1回公演の『天誅組』で代官所用人・木村裕次郎役、『愛宕の義憤』で藤倉軍平役を演じて早くも注目された〔〔富士正晴著『大河内傅次郎』p.69〕。さらに同年には『愛宕の義憤』を脚色した高松プロダクション製作の『義憤の血煙』で2度目となる映画出演をし、舞台と同じ藤倉軍平を演じた。その後は金井修、西村実、倉橋信雄とともに第二新国劇の四天王と呼ばれ、『次郎長と石松』の次郎長、『若き日の忠次』の日光の円蔵などを得意とした〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「大河内傳次郎」の詳細全文を読む




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