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増田通二 : ミニ英和和英辞書
増田通二[ますだ つうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぞう]
 (n) increase
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [つう]
  1. (adj-na,n) (1) connoisseur 2. authority 3. (2) counter for letters, notes, documents, etc. 
: [に]
  1. (num) two 

増田通二 : ウィキペディア日本語版
増田通二[ますだ つうじ]
増田 通二(ますだ つうじ、1926年4月27日 - 2007年6月21日)は、日本の経営者。パルコ元会長。
== 略歴 ==
東京の新宿区市ヶ谷生まれ。父親は日本画家の増田正宗で、通二は4人兄弟の末っ子。世田谷区立守山小学校から都立十中(現・都立西高)に進み、堤清二と同級となる〔。旧制府立高校から東京大学文学部哲学科へ進学。東大在学中の24歳のとき、上野の日本料理店「花家」の娘・黒岩静江と一緒に暮らすための収入源として、堤の父で、父親のパトロンでもあった堤康次郎に頼み、学生の身分のまま西武鉄道グループの親会社である国土計画の社長付き雑用係として働き始める〔ニキ美術館〕。1952年に東大を卒業し、中学の恩師の配慮で東京都立第五商業高等学校定時制社会科教師になる〔ニキ美術館〕。その後、当時堤清二が店長をしていた池袋西武に出店した妻の実家の「花家」で働いたのち〔ニキ美術館〕、1961年に堤の招きで西武百貨店に入社。
1969年、系列の池袋の丸物デパート(現・池袋パルコ)の雇われ社長となり、池袋パルコを開業。また、東京ではファッションは平らな所では育たない。との持論の下、1973年には「すれちがう人が美しい 渋谷公園通り」のキャッチコピーを引っさげ、渋谷パルコをオープンさせる〔『開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ』P98、99。〕。1984年パルコ社長、1989年に同会長を退任するまでに、札幌から熊本までの店舗ビルの設計に関わったほか〔『開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ』P148。〕、ホテル経営にも参入した〔『開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ』P149。〕〔2009年6月、渋谷クレストンホテルなどの運営を行っていたパルコの完全子会社であったホテルニュークレストン及び資産は、HMIホテルグループ事業譲渡されている。〕。この他、山口はるみ小池一子石岡瑛子らを広告制作に起用し、パルコのイメージ戦略を成功へと導いた〔『開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ』P102。〕。
パルコ退任後には、1994年ニキ・ド・サンファルの作品を展示するニキ美術館を那須に開館〔自著『開幕ベルは鳴った』(東京新聞出版局 2005年)プロフィール〕。2007年、急性心不全により81歳で没〔企業家人物辞典、2007-06-21〕。同美術館は館長を務めていた妻の増田静江が没し、2011年に閉館。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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