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塩谷義孝 : ミニ英和和英辞書
塩谷義孝[しおのや よしたか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

塩谷義孝 : ウィキペディア日本語版
塩谷義孝[しおのや よしたか]
塩谷 義孝(しおのや よしたか、長享2年〔この生年は秋田塩谷系譜に基づくものだが、義孝の父孝綱と義孝が寄進したと伝えられる薬師如来立像にある胎内の銘文には、永正11年(1514年)11月吉日の日付とともに、義孝は藤千代丸の名で刻銘されており、系譜が正しければ、この時義孝は27歳(数え年)になっており、幼名である藤千代丸の名で記されているのはおかしいという観点、さらに長子である義通が誕生した時、この生年が正しければ義孝はこの時59歳にもなってしまうという観点から、この生年については疑問も呈されている。〕1月5日1488年2月17日) - 永禄7年〔永禄9年(1566年)付けの義孝の書状が残るので、この時まで義孝が生きていたとする説がある。しかしながら、この説の根拠となる書状には「塩谷左衛門」と書かれており、この名は、塩谷一族が多く名乗っており、これだけでは、この塩谷左衛門が義孝とは特定出来ない。〕10月7日1564年11月10日))は、下野国塩谷郡戦国武将伯耆守民部大輔。幼名は藤千代丸。別名として由綱(よしつな)〔多くの文献では「義孝」の名で記されており、義孝の名の方が知られているが、義孝が、父孝綱の死後に父のために天文18年(1549年)6月6日に建立した石地蔵には「長子 由綱」と刻銘しており、この事から、由綱の方が正式な名前であったとの指摘もある。〕、塩谷太郎。父は塩谷孝綱。正室に宇都宮広綱の養女、側室に岡本正重の娘。子に義通義綱〔但し、秋田塩谷系譜には、義通や義綱の名は見えず、塩谷時綱、忠綱、時業という子がいたとする。〕。弟に義尾孝信〔但し、秋田塩谷系譜には、義尾や孝信の名は見えず、塩谷盛綱(長門守)、泰成、宗親という弟がいたとする。〕などがいる。
== 沿革 ==
塩谷孝綱の嫡男として生まれた義孝は、天文15年(1546年)10月19日、父孝綱の死とともに塩谷家の家督を継ぐ。この時、弟の孝信が、喜連川塩谷氏の養子となりその家督を継いでいたが、この頃より、義孝と孝信の関係が悪化する。この時、義孝は宇都宮家から正室を迎えているが、孝信は宇都宮氏と対立する那須氏の家臣大関氏より妻を迎えていたため、これをきっかけに不和になったと言われている〔那須記は、義孝が父孝綱の死後、孝信に相談もなく宇都宮家から養子を迎えたことがきっかけで不和になったするが、義孝が宇都宮家から養子を迎えた事実はなく、宇都宮広綱の養女を妻とした事と混同している。〕。
義孝が塩谷家の当主となって以降、沢村城やその周囲の土地を中心に、塩谷氏と那須氏の対立が激化するが、義孝の時代は、塩谷側がやや有利な状況であった。しかし、那須側であった弟の孝信は、永禄7年(1564年)10月7日夜、義孝の居城である川崎城に16騎の精鋭とともに侵入し、孝信に寝返った木村和泉が城内にいて手引きし、本丸で就寝していた義孝は孝信の手勢によって殺害される。木村和泉は、沢村城代にも名を連ねる義孝が信頼する重臣であった。
享年77。戒名は長松院殿実山蓮信大居士。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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