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塩田剛三 : ミニ英和和英辞書
塩田剛三[しおだ ごうぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

塩田 : [えんでん]
 【名詞】 1. saltpan 2. field for drying salt 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [み]
  1. (num) three 

塩田剛三 : ウィキペディア日本語版
塩田剛三[しおだ ごうぞう]

塩田剛三(しおだ ごうぞう、1915年大正4年)9月9日 - 1994年平成6年)7月17日)は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道合気道)家である。本名・塩田剛(しおだ たけし)。身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の達人」と高く評価され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。
== 略歴 ==
医師・塩田清一の次男として生を享ける。かなり裕福な家庭に育ち、不自由は何一つなかった。 新宿区立四谷第六小学校時代から剣道柔道を習い、旧制東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)5年時には講道館柔道三段位を取得していた。
1932年、18歳の頃、塩田の父親から相談を受けた府立六中校長の誘いで、植芝盛平が営む植芝道場を見学に訪問。その時期の塩田は武道の腕前を上げ慢心を見せ始めており、植芝と門下生の稽古も内心「インチキじゃないか」と思いながら眺めていたという。そこへ植芝自ら塩田に「そこの方、やりませんか」と声をかけ、1対1の稽古をしないかと誘ってきた。塩田はその申し出を受けて事実上の立ち会いに臨み、植芝へいきなり前蹴りを放った。すると一瞬で壁まで投げ飛ばされ、驚嘆した塩田は即日入門を決意。植芝の門下生となった。塩田は晩年に受けたインタビューの中で、この植芝との立ち会いのことを「投げられた時に頭をしたたかに打ちましてね。私より小さなお爺さん(実際は植芝の方が2cm身長が高い)に何をされたのかも分からず、閉口してしまったわけです。その場で手をついて、弟子にして下さいと言いましたよ」と述懐している。これ以後、内弟子時代も含めて約8年間、植芝の下で修行に励んだ。その後拓殖大学卒業している。
1941年から、親交の深かった畑俊六の秘書として台湾中国ボルネオ島など各地に派遣され、それぞれの地で勤務の傍ら合気道の普及に努めた。自伝によるとかなりの高給取りであり、若かったこともあって様々な遊びを行っていたことも告白されている。塩田は軍部からの要請に当初戸惑っていたが、植芝から「塩田さん。今のあなたは何処へ行っても、誰とやっても負けません。安心して引き受ければ良い」と言われ、日本国外での職務に尽力する決意をしたという。1946年に帰国し、茨城県岩間町に居を構えていた植芝の下で、再び修行に打ち込んだ。この時期、田中清玄に誘われて秘書となり、またストライキに悩まされていた日本鋼管に出向し社員・警備員に合気道を指導している。
1955年7月、ライフ・エクステンション(長寿会)主催の「日本総合古武道大会」において演武を披露し、同大会最優秀賞を受賞。翌 1956年、田中清玄秘書時代に培った財産や政財界の人脈の後押しを受け、会派養神館合気道を立ち上げ合気道養神会を結成、道場を新宿区筑土八幡に設立した。
1961年、植芝より合気道九段(当時最高位)の免状を受ける。植芝より直々に授与される免状は、これが最後になる。この後、1983年には、国際武道院より範士号を、 1985年には国際武道院より合気道十段を、1988年には国際武道院より合気道名人位を授与された。
1990年全日本養神館合気道連盟国際養神会合気道連盟を設立。国内だけでなく海外まで養神館合気道の普及を進めていった。
1994年(平成6年)7月17日、死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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