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堀川浪之助 : ミニ英和和英辞書
堀川浪之助[ほりかわ なみのすけ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ほり]
 【名詞】 1. moat 2. canal 
堀川 : [ほりかわ]
 【名詞】 1. canal 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

堀川浪之助 : ウィキペディア日本語版
堀川浪之助[ほりかわ なみのすけ]

堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.524.〕〔揚幕社, p.10-11.〕〔映画世界社, p.20.〕〔映画世界社, p.24.〕〔映画世界社, p.39.〕〔''堀川浪之助''、''jlogos.com'', エア、2013年3月6日閲覧。〕〔''堀川浪之助''日本映画データベース、2013年3月6日閲覧。〕〔''堀川浪之助''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月6日閲覧。〕〔''堀川浪之助''日本映画製作者連盟、2013年3月6日閲覧。〕〔''堀川浪之助''日活データベース、2013年3月6日閲覧。〕〔''堀川浪之助''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月6日閲覧。〕。本名近藤 浪之助(こんどう なみのすけ)〔〔〔〔。松竹蒲田撮影所での主演俳優として、第2期の阪東妻三郎プロダクションの助演俳優として知られる〔。
== 人物・来歴 ==
1888年明治21年)10月2日東京府荏原郡品川町南品川(現在の東京都品川区南品川)に生まれる〔〔〔〔。
『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業、1910年(明治43年)、井上正夫の一門に加わる〔。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、初舞台は1909年(明治42年)に井上正夫一座が有楽座(現在の丸の内ピカデリー)で上演した「新時代劇」である旨が記されている〔。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)および『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同)にも、数え年「22歳」のときに入門・初舞台としてあり、これは「1909年」のことであることを示している〔。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』によれば、1914年(大正3年)には自らの一座を結成して、四国および九州を巡業したという〔。日本映画データベース、ならびに文化庁の「日本映画情報システム」によれば、1917年(大正8年)には、小林喜三郎小林商会が製作する映画に出演しており、同年4月25日および5月5日に公開されたサイレント映画に出演している〔〔。小林商会は同年に倒産し、小林喜三郎は1919年(大正8年)12月6日に国際活映を創立しているのだが、『日本映画俳優全集・男優編』によれば、1920年(大正9年)には、井上が国際活映に入社、それにともなって堀川も入社、翌1921年(大正10年)には、井上ともども退社したとある〔。
1922年(大正11年)、井上の門下を離れて、松竹蒲田撮影所に入社、同年8月21日に公開された『曳かれ行く日』(監督池田義臣)で主演に抜擢、栗島すみ子を相手に重要な役柄を演じた〔〔。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災によって、同撮影所は使用不能になり、京都の松竹下加茂撮影所に機能を移転、堀川もしばらく下加茂に異動した〔〔〔。同年に発行された『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』では、荏原郡蒲田町大字北蒲田1323番地(現在の大田区蒲田5丁目)と撮影所至近に住み、身長は5尺3寸5分(約162.1センチメートル)、体重14貫200匁(約53.3キログラム)、妻子ありと記されている〔。翌1924年(大正13年)には蒲田は復興し、堀川も復帰している〔〔。1926年(昭和元年)12月末で同社を退社、翌1927年(昭和2年)には、京都・太秦阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に移籍している〔〔〔。同社の活動停止後は、阪東妻三郎プロダクションに移り、『暗夜のパノラマ』(監督小沢得二)等に主演したが、同プロダクションが1928年(昭和3年)には解散したので、小沢得二の小沢映画聯盟に参加した〔。
1931年(昭和6年)1月、阪東妻三郎が「大日本自由映画プロダクション」を設立、京成電鉄が提供した千葉県千葉郡津田沼町大字谷津海岸(現在の同県習志野市谷津)に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」(のちの谷津遊園)を建設、堀川はこの設立に参加、同撮影所の第1作『洛陽餓ゆ』(監督東隆史)に出演する〔。同撮影所は、反時代的にサイレント映画を製作し続け、堀川もこれに出演を続けたが、1935年(昭和10年)1月20日に公開された『彦左と九馬』(監督長尾史録サウンド版)を最後に、閉鎖することになり、堀川は、阪東一党ともども、配給提携先であった新興キネマに移籍する〔〔〔。
堀川の移籍先は、阪東らのように京都ではなく、同年、板橋区東大泉町(現在の練馬区東大泉2-34-5)に新設された新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)であった〔〔〔。堀川は、同撮影所でも多くの映画に助演、1942年(昭和17年)1月10日、戦時統合により、新興キネマは日活の製作部門等と合併して大映を形成し、堀川もこれに継続入社したが、満54歳となった1943年(昭和18年)3月11日に公開された『風雪の春』(監督落合吉人)以降の出演記録が見当たらない〔〔〔〔〔。時代は第二次世界大戦も深まり、その後の消息は不明である〔。没年不詳

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「堀川浪之助」の詳細全文を読む




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