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哥舒翰 : ウィキペディア日本語版
哥舒翰[かじょ かん]
哥舒 翰(かじょ かん、 生年不詳 - 至徳2載(757年))は、テュルク系突騎施西突厥系)出身のの将軍。吐蕃との戦いで活躍したが、安史の乱で敗北し、捕らえられ殺害された。
==生涯==

===武将時代===
突騎施の族長、哥舒部の末裔。父の哥舒道元が安西都護将軍であったため、安西に住んでいた。母はホータン王国(于闐)の王女であったという。家は富み、任侠を重んじていた。唐の都・長安に赴き、市場で酒や博打をたしなんでいた。40歳を過ぎてから父が死ぬ。安西に帰らずに河西に行き、節度使の王スイに仕えて軍功をたてた。後、王忠嗣に仕えて衙将となる。
左氏春秋・漢書を読み、大意に通じていた。財産にこだわらず人によく施し、士心を得ていた。吐蕃を討った時に、命令に従おうとしなかった副将を自ら殺すような厳酷さもあった。吐蕃との戦いにおいて、自ら槍を持って敵をうち破ったために名が響き渡った。隴右副節度使となり、唐に麦を狙って進入してきた吐蕃軍5千を伏兵を使って皆殺しにしている。
哥舒翰は剛勇であった。落馬しながらも大声を発して吐蕃の三将を押しとどめ、援軍とともに殺した説話や、逃げる敵の肩を打って振り向いたところを喉を刺して殺し、左車という名の従者がその首を切ったという話が残っている。
天宝6載(747年)、王忠嗣が軍を進めなかった罪で弾劾された時には、入朝して王忠嗣の釈明を行った。一人で玄宗の前に出て、己と官職をもってあがなうと訴えている。この時に、「直道があれば、冤罪で死ぬこともないし、なければ、賄賂を贈ってもどうにもなるまい」と語ったと伝えられる。ために、王忠嗣は死罪を免れた。
天宝7載(748年)、青海地方に城を築いて吐蕃を破り、青海に近づかせなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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