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吾彦 : ミニ英和和英辞書
吾彦[ご げん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [われ]
 【名詞】 1. me 2. oneself 3. self 4. ego

吾彦 : ウィキペディア日本語版
吾彦[ご げん]
吾 彦(ご げん、生没年不詳)は、中国三国時代からにかけての武将。西晋に仕えた。士則揚州呉郡呉県の人。『晋書』に伝がある。
== 経歴 ==
出自は貧しかったが文武の才能があった。身長が八尺あり、猛獣を素手で仕留めるなど力があったため採り立てられ、通江史となった。薛珝の姿が堂々としているのを見て感心していたところ、ある人から「あなたも薛珝と同じぐらいには出世するだろう」と慰められた。後に下級将校となり、陸抗の配下となった。陸抗は吾彦の勇猛さと才略を優れていると考え、抜擢して用いようとしたが、周りの者から反対されることを懸念した。そこで諸将を集め、密かにある者に狂人を装わせ、剣を抜き躍り出させたところ、席上の諸将はみな恐れ慄き走って逃げ出した。だが、吾彦だけは逃げ出さなかったため、人々はその勇敢さに感心したという。その後、陸抗は吾彦を予定通り抜擢した。272年歩闡が呉に対して反乱を起こした際、吾彦は陸抗に従って参軍し、反乱鎮圧に貢献した(『三国志』呉志「陸抗伝」)。
その後、建平太守となった。279年長江上流から流れてくる多数の木屑を見て、晋が軍船の建造をしていると予測し、孫皓に対して建平の守備を強化するよう上奏したが、容れられなかった。そこで吾彦は、独断で長江に鉄鎖を張り巡らせるなど防備を固め、敵の襲来に備えた。晋軍が侵攻してくると、諸城がみな攻略されるか降伏していく中で、吾彦だけは城を堅守した。晋は大軍でもって攻勢をかけたが、結局攻略できなかったため諦めて軍を退き、吾彦の奮戦に敬意を表したという。しかし、孫皓が降伏したことを知ると、吾彦も開城し降伏した。
吾彦が帰順すると、武帝(司馬炎)は吾彦を金城太守とした。
武帝が呉の旧臣である薛瑩に対し、呉がなぜ滅びたかを質問したところ、薛瑩は孫皓の悪政を正直に述べた。武帝がそれと同じ質問を、吾彦にしたところ「孫皓は英明であり、呉の将兵も精鋭ばかりであった。よって、呉の滅亡は天命だったのだ」と述べた。つづく張華の詰問に対しても、正々堂々と論述したため、司馬炎はたいそう感心し喜んだ。
その後、燉煌太守・雁門太守と転任し、恩寵に溢れた統治を行なった。やがて順陽王の司馬暢の下で内史となったが、司馬暢は身勝手で、過去に何度も内史を誣告して処刑していた。吾彦は身を正し、率先して威信法律を厳粛に守り、人々を畏怖させた。このため司馬暢は誣告することができなくなった。司馬暢は彼を遠ざけようとして、上職に推挙して内史職から異動させたため、吾彦は員外の散騎常侍となった。
あるとき、武帝からかつて仕えていた陸抗・陸喜の人物について尋ねられたところ、吾彦は「徳や名望では陸抗は陸喜に及びません。しかし、功績を立て賞賛されることでは、陸喜が陸抗に及びません」と評価し、かつての恩人である陸抗のみを立てるようなことは言わなかった。そのため、陸抗の子陸機陸雲には疎まれるようになり、吾彦から陸家への贈り物は拒否されるようになったという。その後、吾彦の悪口を繰り返す陸機・陸雲に対し、尹虞が「古代より賤しい身から出世した者には帝王さえいます。たかが公卿くらいがどうだと言うのです。何元幹(何楨)・侯孝明(侯史光)・唐儒宗(唐彬)・張義允らがみな貧しく賤しい身から出世し、みな中央の側近や地方の重鎮になりましたが、悪口を言う者はおりませんでした。あなた方は士則(吾彦)殿がご下問に対して少し褒めなかったくらいのことで、ひっきりなしに悪口を言っておられます。しかし私は、南方の人々が皆あなた方を見捨ててしまい、あなた方が一人ぼっちになりやしないかということの方が心配なのです。」と忠告したため、漸く陸機らの気持ちは解けていったといわれる。
陶璜が没すると、後任の南中都督交州刺史となった。着任してすぐに、九真郡の国境守備兵が乱を起こした。反乱軍が太守を追放し、賊の頭目であった趙祉も郡城を包囲していたが、吾彦はすべて討伐し平定した。その後、20年ほどその任務にあたり、各地の反乱鎮圧に努めたため、威厳と恩恵が広く知れ渡り、交州には静穏な時が流れたという。その後、吾彦は自ら上表して中央に戻り、大長秋となった。その後、在職中に没したという〔陶璜は270年前後に虞汜の後を継いで交州刺史となり、30年前後も長きに亘って交州を統治したので、記述が正しければ、陶璜と吾彦の2人で約半世紀にわたり交州を統治したことになる。また、吾彦は陶璜が没した300年前後に交州刺史となり、320年前後に中央へ戻っているので、呉の滅亡八王の乱永嘉の乱東晋の成立を体験していることからすると、かなりの長寿で亡くなったことになる。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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