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博爾朮 : ミニ英和和英辞書
博爾朮[ばく, ひろ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ばく, ひろ]
  1. (n,n-suf,vs) doctor 2. Ph.D. 3. exposition 4. fair 5. exhibition 6. commanding esteem 7. winning acclaim 8. gaining 9. receiving 10. command esteem 1 1. win acclaim 12. gain 13. receive

博爾朮 ( リダイレクト:ボオルチュ ) : ウィキペディア日本語版
ボオルチュ[ばく, ひろ]

ボオルチュBo'orču, Boγorču. 生没年不詳)は、モンゴル帝国チンギス・カンの家臣で、イェスゲイ没後の貧窮時代からチンギスに仕えた続けたモンゴル帝国草創期の第一等の勲臣である。アルラト部族の出身で、いわゆる四駿の一人、中国史料の『元史』には、四駿は四傑とも称される。漢文資料では『元朝秘史』では孛斡出、『元史』等では博爾朮などと表され、『集史』等のペルシア語資料では بورچى نويان Būrchī Nūyān または بوغورچى نويان Būghūrchī Nūyān と表記されている。父はナク・バヤン(『元朝秘史』では、納忽伯顏 Naqu-Baiyan)〔小沢重男『元朝秘史全釈(中)』157, 159頁〕、『集史』「ウルナウト部族誌」の「第二子アルラト(アルラト部族の名祖)条」(アルラト部族誌)および同「チンギス・カン紀・千人隊一覧」によると、ボオルチュにはトグルク・チェルビ توقولقو چربى Tūqūlqū Charbī / دوقلقو چربى Dūqlqū Charbī という兄弟がおり左翼の千人長であったという〔志茂『モンゴル帝国史研究正篇』607, 613頁〕。『元朝秘史』巻3/120段によると、オゲレン・チェレビ 斡歌連徹児必 Ögölen-čerbi 〔小沢重男『元朝秘史全釈(中)』340頁〕という人物がボオルチュの弟であるという〔『集史』「チンギス・カン紀・千人隊一覧」等ではトグルク・チェルビがボオルチュの兄弟であり、『元朝秘史』のオゲレン・チェレビと同一人物と思われるオゲレ(イ)・チェレビاوكله جربى Ūkla Charbī はスニト部族出身の千人長としている(志茂『モンゴル帝国史研究正篇』638頁)。モンゴル史研究者の村上正二はオゲレン・チェルビがボオルチュの弟であり、『集史』のトグルク・チェルビと同一人物と思われるドコルクゥ・チェルビ (ドゴルク・チェルビ)多忽徹児必 Doɢoluqu-čerbi はマングト部族のジェデイの弟としているこれら『元朝秘史』の記述の方が正しいと論じている(村上『モンゴル秘史 1 チンギス・カン物語』227-228頁)。 〕。
== 概要 ==
元朝秘史』、『元史』によれば、伝説的とも言える君臣の出会いの逸話が伝えられ、『元朝秘史』巻八には1206年初春のチンギス・カン第二次即位の場面において88名の千戸長を選定した勲臣リストが載るが、うちボオルチュはイェスゲイに仕えたコンゴタン氏族のモンリク・エチゲに次ぐ勲臣第2位に列記されている。
『元朝秘史』および『集史』によれば、チンギスの七世の祖であるカイドゥ・カンにはバイシンゴル・ドクシン(チンギスの祖先)、チャラカイ・リンクム、チャウジン・オルテゲイの三人の息子があったといい、このチャウジン・オルテゲイから派生した部族のうち、オロナウル、コンゴタン、スニトと並んでアルラト部族が挙げられている。
『元朝秘史』巻二の逸話によると、父イェスゲイと部民を失い、困苦の日々を送っていたテムジン(後のチンギス・カン)の一家は、ある日、遊牧民にとって財産である馬のほとんどを盗まれてしまった。奪回のため、追跡を開始した途中でテムジンがたまたま出会ったのがボオルチュだった。テムジンから、事情を聞いた彼の行動が、目撃していた盗賊の追跡と、そのアジトの強襲と劫掠の協力であった。13歳の少年とは思えないその義侠、不敵、智勇に感銘をうけたテムジンは、最初の部下として、親友として行動を共にさせる。
以後、帝国初期の創業に参画し、長じて異数の勇者に成長する。戦争に強いだけでなく、政策の相談を受けることもあったようである。モンゴル草原の制覇の後は、中国北部、中央アジアに征旗をたて、誠忠と智勇は、チンギス・ハーンが高く認めるところであった。
後にチンギス・カンは、最も有能と認め信頼を寄せた四駿の一人、ムカリを得た。上述のとおり、『元朝秘史』第八巻第二百二段に載る1206年のチンギス・カンの第二次即位の時の功臣リストでは、ボオルチュは、筆頭のコンゴタン氏族のモンリク・エチゲ(イェスゲイの代からテムジンの一家に仕えた老臣で巫者ココチュ・テプ・テングリの父)に次ぐ帝国の功臣第二位にあり、第三位のムカリや第七位のバルラス部族のクビライを凌ぎ、『集史』「チンギス・ハン紀」や「オゴデイ・カアン紀」、「アルラト部族誌」でも、ボオルチュはチンギスからオゴデイの時代にかけてモンゴル帝国における全諸将筆頭( امير الأمراء amīr al-umarā' 諸アミールのアミール、大アミール)であったことが述べられており、モンリク・エチゲ、ココチュらコンゴタン氏族の勢力が失脚してからは名実共にモンゴル帝国の筆頭部将として活躍した。
事実、近代以前の最高軍事力のひとつであった十二万九千戸のモンゴル集団を分配した時、
三万八千戸を統帥する、最高統率者、右翼(バラウン・ガル)万戸長に任命されトルイ家を補佐したようである。封土はアルタイ山脈方面にあった。
ボオルチュの没年ははっきりしていない。『元史』巻百十九「博爾朮伝」にはチンギス在世中に病没したように書かれているが、『集史』ではオゴデイの治世半ばまで存命し引き続き帝国の諸将筆頭として盛んに活躍している(これを受けて『新元史』や屠奇 編著の『蒙兀兒史記』などでは没年が修正されている)。チンギスの治世に廣平路の「戶一萬七千三百」を分地として下賜を受けた。ボオルチュの没後、大元朝テムルにより、大徳五年(1301年)に「廣平王」を追封され、「武忠」と諡された。
その死後、爵位たる廣平王は息子のボロルタイ(中国史料では、孛欒台)が継ぎ、孫のユステムル(中国史料では、玉昔帖木兒)が継いだ。ボロルタイはボオルチュの右翼軍を受継ぎバトゥの西方遠征では宿将となるなど活躍し、特にユステムルは元朝の名臣として名高い。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ボオルチュ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bo'orchu 」があります。




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