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南桂子 : ミニ英和和英辞書
南桂子[みなみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
: [けい, かつら]
 (n) (abbr) knight (shogi)
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

南桂子 : ウィキペディア日本語版
南桂子[みなみ]

南 桂子(みなみ けいこ、Keiko Minami、1911年2月12日 - 2004年12月1日)は、富山県射水郡出身の版画家(銅版画)。夫は版画家の浜口陽三。本名は浜口 桂子(はまぐち けいこ)〔南桂子 東京文化財研究所〕。
少女や鳥や樹木を題材とした抒情的な作品で知られた〔東京の「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」で開催中の、高岡出身の銅版画家・南桂子の展覧会。 高岡市、2013年12月2日〕。戦後日本を代表する銅版画家である〔南桂子展 生誕100年 佐倉市立美術館〕。
== 経歴 ==

祖母の節子は科学者の高峰譲吉の妹である〔「南桂子 略年譜」『版画芸術』133号, pp.68-69〕。父親の南達吉は東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業して南家の家督を継いだ人物である〔。母親のきよは日本女子大学国文科で学んだ歌人である〔。
1911年(明治44年)2月12日〔、富山県射水郡下関村(現高岡市中川)の地主の家に生まれた(三女)〔。母親は南が幼いころに亡くなったため顔も知らず、継母に育てられたうえ、12歳の時には父親が急死した〔本江邦夫「南桂子 ε 近傍の芸術」『版画芸術』133号, pp.40-55〕。こうして早くに両親を亡くしたことから、高岡市中川や雨晴海岸で親族によって育てられた〔。1924年(大正13年)に富山県立高岡高等女学校(現富山県立高岡西高校)に入学し、1928年(昭和3年)に高岡高等女学校を卒業した〔。富山では一度目の結婚を行って子供を儲けたが、結婚生活は幸福とは言えなかった〔。
太平洋戦争後の1945年(昭和20年)、34歳の時には長男とともに〔前田常作「南桂子の思い出」『版画芸術』133号, pp.58〕上京〔。佐多稲子の紹介で作家の壺井栄に童話を〔、洋画家の森芳雄に油絵を学んだ。現在では南の作品として4篇の童話が確認されているが〔瀬尾千秋「南桂子のスケッチブックから」『版画芸術』133号, pp.62-64〕、文学としての童話の執筆を行っていたのは戦後から渡仏までの期間であるとされている〔。1949年(昭和24年)には第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品し、森芳雄のアトリエで後に夫となる版画家の浜口陽三と出会った〔。1954年にフランス・パリに渡ると、フランスでは浜口と暮らした〔。40歳を過ぎてから銅版画の世界に入り、版画研究所でアクアチントを学んだ〔。1955年には自由美術家協会会員に推され、1956年には「風景」がフランス文部省に買い上げられた〔。
1957年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)のクリスマスカードに「羊飼いの少女」が採用され、1958年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された〔〔。このグリーディングカードは200万枚以上が発行され、2度増刷されている〔「世界の人々に愛されて」『版画芸術』133号, pp.66-67〕。1964年にはユニセフの1966年版カレンダーに「子供と花束と犬」が採用された〔。1970年に出版された谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』では、ペン画による挿絵や装画を手がけた〔。谷川は「銅のフェティシズム 南桂子さんに」という詩を詠んでいる〔。1968年には親交のあった朝吹登水子らが翻訳を担当した『世界文学全集 46 ボーヴォワール/デュラス』(講談社)で挿絵8点を手掛け、1969年に出版された福永武彦の『幼年 その他』(講談社)でも挿絵を手掛けている〔。
1961年から1981年まではパリの画廊と専属契約を交わしている〔。1982年には帝国ホテルの全客室に南の銅版画が飾られ、1992年に創刊した帝国ホテルの情報誌「IMPERIAL」では1号から13号まで連続して南の作品が表紙を飾った〔。2011年時点でも一部の客室には南の作品が飾られている〔。1981年にはパリからアメリカ合衆国のサンフランシスコに移り〔、1984年には日本版画協会名誉会員に推挙された。1996年に日本に帰国〔。1998年には浜口陽三の作品を常設展示する「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南の作品の所蔵も行っている〔。近年までは夫である浜口陽三の陰に隠れていたが、帰国後の1997年に出版された『南桂子全版画作品集』でその画業が知られるようになった〔「注目の作家 南桂子」『版画芸術』152号, p.76〕。2000年には夫の浜口陽三が死去。2004年、心筋梗塞により東京都内港区の病院で死去した〔。93歳〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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