翻訳と辞書
Words near each other
・ 北通文
・ 北進
・ 北進統一
・ 北進論
・ 北進駅
・ 北道区
・ 北道正幸
・ 北遠
・ 北遠本線
・ 北遠軽駅
北遼
・ 北邑知村
・ 北那珂村
・ 北那珂郡
・ 北邦医療
・ 北邦医薬
・ 北邦野草園
・ 北邵洼駅
・ 北邵窪駅
・ 北郊


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

北遼 : ミニ英和和英辞書
北遼[ほくりょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north

北遼 : ウィキペディア日本語版
北遼[ほくりょう]
北遼(ほくりょう、1122年 - 1123年)とは、中国史料で存在した亡命政権の呼称。都は南京(燕京:現在の北京)。
== 概要 ==
1122年に、遼の天祚帝が入來山で太祖によって大敗し、長春に逃れた。そのため、留守を託された遼の皇族耶律大石は大臣李処温とともに、3月17日に天祚帝の従父(おじ)の耶律淳天錫帝として擁立させ、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしてしまった。この王朝は「北遼」と称し、金と対抗した。
6月24日、天錫帝が61歳で病死すると、天祚帝の太子で五男の秦王・耶律定が擁立された。天錫帝の未亡人の蕭徳妃・蕭徳妃普賢女が摂政となり国政を見た。しかし、1123年正月、燕京が金の攻撃を受けると、これを支えきれずに秦王と蕭徳妃と耶律大石らに支えられて、長春から西方の雲中山西省大同市)の陰山に移動した天祚帝のもとに身を寄せる事になった。
この時の天祚帝は上記の天錫帝擁立などの罪状から「おば」の蕭徳妃を2月2日処刑してしまい、秦王はもとの太子に戻された。
同年5月8日、南京(燕京)にいた遼の大臣たちは再び「北遼」を建国し、天祚帝の次男の梁王・耶律雅里(秦王の同母兄)を北遼の皇帝として、遼から自立した。だが、10月に梁王は病没した。そのため、蕭徳烈らは今度は天錫帝の太子の耶律朮烈(英宗)〔陳邦瞻著『宋史紀事本末』によると、興宗の曾孫と記されている。〕が擁立された。しかし、11月に金軍に包囲され、英宗は内訌によって家臣たちに弑された。こうして、北遼は滅亡を迎えることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北遼」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.