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加藤嘉 : ミニ英和和英辞書
加藤嘉[かとう よし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 

加藤嘉 : ウィキペディア日本語版
加藤嘉[かとう よし]

加藤 嘉(かとう よし、1913年1月12日 - 1988年3月1日)は、日本俳優。本名は名前の読みが「ただし」。音読みで(かとう か)と呼ばれることもある。
映画やテレビドラマで名脇役俳優として活躍し、善悪様々な役をこなした性格俳優のひとり。今井正山本薩夫内田吐夢今村昌平野村芳太郎ら多くの巨匠監督に重用され、出演映画総数は300本を越える。前妻は山田五十鈴、後妻は女優の中村雅子
==来歴・人物==
1913年(大正2年)1月12日東京市芝区新堀町(現在の東京都港区)に生まれる。祖父は材木商をしていたが、父の加藤助次郎は無職で不動産収入をもって生活していた。母は長子で、その長男だった。妹が一人いたが、早くに亡くなっている〔キネマ旬報1979、p.159〕。鎌倉師範付属小学校から慶應義塾商工学校に入り、後慶應義塾高等部に進む〔。在学中、先輩の徳大寺伸が主宰するアマチュア劇団・学生舞台に誘われ、劇団の公演に助っ人として参加する〔〔『時事百科』、小学館、1984年、p.422〕当時は俳優になるつもりはなく、山岳部の活動をしながら学生生活を送っていたが、ラグビー部員に刀の鍔で殴られて失明状態になり、僅か1年で高等部を中退している〔。目は半年後に回復し、その後は素人劇団に出演していた。
1934年(昭和9年)1月、東京宝塚劇場の専属俳優募集の広告を見て俳優を志し、既成俳優を含む1300人の応募者から男16人、女9人の合格者の中に選ばれる〔。合格者の中には谷幹一森野鍛冶哉伏見信子伊藤雄之助らもいた〔キネマ旬報1979、p.160〕。しかし、大部屋生活に不満を持ち、それまで関心のなかった新劇を見るようになる。反戦劇に共鳴し、西欧近代劇や社会主義の本を片端から読みあさっていた。
1936年(昭和11年)、新築地劇団付属研究所に入所、同期に殿山泰司千秋実多々良純らがいる。同劇団での初舞台となった水谷八重子主演の『女人哀詞』で茶店の親爺役を演じ、23歳にして早くも老け役を演じている〔。翌1937年(昭和12年)4月、研究所を卒業して正式に座員となり、『桜の園』『』『どん底』などの作品に出演して頭角を現す〔。
1940年(昭和15年)、新劇弾圧により薄田研二本庄克二ら多くの劇団員が検挙され、加藤も築地署に1週間ほど留置され、劇団は解散させられた。翌1941年(昭和16年)、南旺映画製作の『流旅の人々』で映画に初出演する。同年5月、井上演劇道場・水谷八重子一座合同劇に水谷の相手役として出演〔。1942年(昭和17年)には明治座にも出演し、やがて井上正夫主宰の井上演劇道場に入るが、1943年(昭和18年)に応召。横須賀海兵団に入隊し〔加藤嘉 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年8月11日閲覧〕、海軍経理学校の警衛分隊に勤務するうちに終戦を迎える〔。
1946年(昭和21年)、道場を解散して第2次新協劇団に参加した井上に従って同劇団に入るが、1947年(昭和22年)に東京芸術劇場公演『林檎園日記』にフリーの立場で出演したのを機に、同年7月28日滝沢修宇野重吉らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加し、旗揚げ公演の『破戒』に出演〔。1950年(昭和25年)には劇団民藝(第二次民藝)創立に参加し、『その妹』等に出演するが、翌1951年(昭和26年)に民藝を退団〔。以降は活躍の場を映画に移したが、1965年(昭和40年)には文学座に入り、『女の一生』『五稜郭血書』などの舞台に立った。
戦後の映画初出演作は吉村公三郎監督の『わが生涯のかがやける日』で、1950年代山本薩夫監督の『真空地帯』などの独立プロ映画に出演。やがて東映専属となり、『警視庁物語』『少年探偵団』などのシリーズ作や、内田吐夢監督の『どたんば』『飢餓海峡』、関川秀雄監督の『爆音と大地』などに出演。今井正監督『』の延縄漁師役、山本薩夫監督『白い巨塔』の大河内教授役、今村昌平監督『神々の深き欲望』の離島の区長役などで迫力ある演技を見せている。
中でも野村芳太郎監督『砂の器』では、ハンセン病を患う和賀英良の父親役を回想シーンで生死の狭間を演じ、鬼気迫る演技を見せた。また、神山征二郎監督の『ふるさと』では痴呆老人を好演し、モスクワ国際映画祭最優秀主演男優賞を受賞した。
私生活では、4度結婚した。1番目の妻との間に女子、2番目の妻との間に男子と女子を儲けている。1950年(昭和25年)に山田五十鈴と3度目の結婚をし、1952年(昭和27年)に夫婦で現代俳優協会を結成している〔山田五十鈴『山田五十鈴 映画とともに』、日本図書センター、2000年、p.161〕。しかし、3年で離婚した。1958年(昭和33年)に『米』で親子役として共演した22歳年下の中村雅子と再婚し、女優の加藤千代を儲けた。
1988年(昭和63年)2月29日深夜、自宅の寝室で倒れ、救急車で運ばれたが翌日3月1日になって間もなく搬送先の病院で脳卒中のため永眠した。。
加藤は演じる時に極度のあがり症であったことを、当時ドラマで息子役を演じていた児玉清に告白している〔児玉清『負けるのは美しく』、集英社、2005年〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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