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加藤保男 : ミニ英和和英辞書
加藤保男[かとう やすお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [おとこ]
 【名詞】 1. man 

加藤保男 : ウィキペディア日本語版
加藤保男[かとう やすお]
加藤保男(かとう やすお、1949年3月6日 - 1982年12月27日?)は、日本の登山家8000メートル峰に4度、エベレストに3度の登頂を果たした。エベレストをネパールチベット両側から登頂したのは世界初〔『山で死なないために』pp.205-210「増える、先鋭登山家の遭難」。〕。エベレスト3シーズン(春・秋・冬)登頂も世界初〔。埼玉県大宮市(現さいたま市)生まれ。大宮市市民栄誉賞第一号を受賞。
== 経歴 ==

*1967年昭和42年) - 大東文化大学第一高等学校を卒業。
*1971年昭和46年) - 日本大学文理学部体育学科を卒業。兄で登山家の加藤滝男の影響で登山を高校時代に始める。在学中に大学の山岳部には入部せず、滝男が主催するJECC(ジャパン・エキスパート・クライマーズ・クラブ)で登攀経験を重ねる。
*1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて - アルプス山脈の三大北壁(アイガーグランド・ジョラスマッターホルン)を登攀。
*1973年(昭和48年)10月26日 - 第2次RCC登山隊で、石黒久隊員とともに、エベレスト(サガルマタ)のポストモンスーン期(秋季)初登頂を果たす(ネパール側、東南稜)。日程上強行軍であったためにサウスコル(7,986m)のキャンプからの一気の登頂であり、8,650m地点でのビバークを余儀なくされ、翌日、長谷川恒男隊員に救出される。奇跡の生還と言われたが、この時凍傷で足指すべてと右手の指3本を失った。
*1975年(昭和50年) - インドヒマラヤ最高峰(7,816m)のナンダ・デヴィ遠征。日本・インド合同縦走隊の主峰側サポートメンバーとして主峰に登頂。パートナーは寺本正史。頂上で縦走隊の高見和成長谷川良典と合流。
*1980年(昭和55年)5月3日 - エベレスト(チョモランマ・珠穆朗瑪)にチベット側の北東稜から登頂。下山中に8,750mでビバークとなったが、無事に下山した〔。
*1981年(昭和56年)10月 - 尾崎隆ら三人による遠征隊でマナスルに無酸素登頂〔。
*1982年(昭和57年)12月27日 - 日本人初の冬期エベレスト登頂を果たした(東南稜)が、下山中に消息を絶った〔1980年のポーランド隊に次ぐ冬季第二登。当時、ネパール政府が政治的な理由から冬季の登山許可証を12月1日から1月31日まで(あるいは2月15日まで)に限って発行しており、ポーランド隊の登頂が期間をオーバーして2月17日となったため、当時のネパール政府が定めた冬季登山期間中における初めての登頂となる。「現代ヒマラヤ登攀史」(山と渓谷社)、山と渓谷2014年2月号p101、日本山岳協会「登山月報478号 」p7(平成21年1月15日発行)、ExplorersWeb 2014年1月20日 など参照〕。
*1983年(昭和58年) - 大宮市(現さいたま市)から市民栄誉賞第一号が贈られた。 
*1990年(平成2年) - 小惑星(5743)が加藤と命名された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「加藤保男」の詳細全文を読む




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