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劉馥 : ミニ英和和英辞書
劉馥[りゅう ふく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [りゅう]
 【名詞】 1. axe 2. kill 

劉馥 : ウィキペディア日本語版
劉馥[りゅう ふく]

劉 馥(りゅう ふく ? - 208年)は、中国後漢時代末期の政治家。字は元穎豫州沛国相県の人。劉靖(字は文恭)の父。劉熙劉弘(字は叔和荊州刺史)の祖父。劉璠の曾祖父。
== 事跡 ==
戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄秦翊を説き伏せ、共に曹操に帰順し、曹操を大いに喜ばせた。建安5年(200年)頃、揚州刺史の厳象廬江太守李術に殺害される事件が起き、さらにその隙を衝いて、廬江の梅乾雷緒陳蘭らが数万の軍勢で跳梁した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥ならその任に堪えられるとみなし、後任の揚州刺史として派遣した。
劉馥は、単身で合肥に乗り込んでここに政庁を設置し、雷緒たちを帰服させた。数年もすると仁政と教化の効果が現れ、揚州の政治は安定し、他の地方の人民までが劉馥を頼って集まってくるほどであった。さらに屯田・灌漑事業を推進して良好な結果を残し、財政的に余裕も出るようになった。
建安13年(208年)、劉馥は死去した。劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、孫権の合肥攻撃の際に、これを撃退する上で大いに貢献した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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