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前田治脩 : ミニ英和和英辞書
前田治脩[まえだ はるなが]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [しゅう]
 【名詞】 1. dried meat 2. dry up

前田治脩 : ウィキペディア日本語版
前田治脩[まえだ はるなが]

前田 治脩(まえだ はるなが)は、加賀藩の第10代藩主。加賀前田家11代。第5代藩主前田吉徳の十男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰重煕重靖重教、治脩)のうち最後の藩主である。
== 生涯 ==
父・吉徳の死の5ヶ月前に最後の男子として生まれる。〔以下、『加賀藩史料』。『寛政重修諸家譜』。〕幼名は時次郎。藩主の十男と序列は極めて低く、本来藩主の座などとても望めない立場であった。延享3年4月、越中勝興寺の住職になることが定まり、6月に名を尊丸と改める。宝暦6年(1755年)11月に勝興寺に移り、宝暦11年(1761年)3月、17歳で得度して闡真と称した。しかし、兄たちは次々に早世し、七男の重教が藩主を継いだ頃には、重教と九男の利実を残すのみであった。明和3年(1766年)に利実も没し、重教にも他の兄たちにも男子がなかったため、明和5年(1768年)12月に闡真は重教の命により還俗した。翌年2月金沢に移り、俗名で名乗りを時次郎に戻した後、利有(としあり)とした。なお、このとき金沢入りした際の道中記は、非常に優れた日記として評価されている。明和8年(1771年)3月、松平名字を与えられる。〔村川浩平『日本近世武家政権論』、174~175頁。〕翌4月、重教の隠居により家督を継ぎ、将軍徳川家治より偏諱を授かり治脩に改名した。
寛政4年(1792年)、藩校明倫堂(総合大学的性格を持つ文学校)と経武館(士官学校的性格を持つ武学校)を兼六園の隣に創設した。学頭は京から招かれた新井白蛾で、当代随一の漢学者として名高かった。
重教が隠居後に男子をもうけたので、長男の斉敬寛政3年(1791年)に養嗣子とした。しかし斉敬は襲封前に夭逝したため、代わって次男の斉広を養嗣子とし、享和2年(1802年)に家督を譲って隠居した。寛政12年(1800年)に側室の伊遠に自身の男子・裕次郎(利命)が生まれており、斉広の養嗣子としたが、裕次郎は文化2年(1805年)に6歳で夭折した。
文化7年(1810年)、66歳で没した。
遺物として帆船の帆柱を描いた陣羽織が残り、加賀藩の海軍への関心の高さをうかがわせる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「前田治脩」の詳細全文を読む




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