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倉本聰 : ミニ英和和英辞書
倉本聰[くらもと そう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう]
 【名詞】 1. warehouse 2. cellar 3. magazine 4. granary 5. godown 6. depository 7. treasury 8. elevator
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

倉本聰 : ウィキペディア日本語版
倉本聰[くらもと そう]
倉本 聰(くらもと そう、戸籍上は1935年1月1日(実際は1934年12月31日〔エッセイ集『北の動物園』(扶桑社、2004年)「生年月日」の章を参照 72頁〕)- )は、日本脚本家劇作家演出家。本名山谷馨。夫人は女優の平木久子演劇集団 円所属)。
== 経歴 ==
東京府(現・東京都)出身。父・山谷太郎1899年 - 1952年)は春潮という俳号を持つ俳人で、『野鳥歳時記』(1943年)を残した。両親はともにクリスチャンだった〔『獨白 2011年3月』p142〕。
戦時中は山形市上山市岡山県金光町疎開〔『獨白 2011年3月』p44、p129〕。このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本は大きなカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使って数か月後には東京に戻ることに成功した〔『獨白 2011年3月』p130〕。この体験は、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて、純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している〔『獨白 2011年3月』p129〕。 また、金光へは1945年4月から1年間、一家6人で疎開していた。
豊島師範附属小学校(現・東京学芸大学附属小金井小学校)から麻布中学校・高等学校を経て東京大学文学部美学科卒業。
1959年ニッポン放送に入社し、局では本名でディレクター・プロデューサーとして勤務する傍ら「倉本聰」のペンネームで脚本家としての活動を行なう。『パパ起きてちょうだい』(日本テレビ)が脚本家デビュー作。会社に内緒で脚本活動を行なっており、当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった〔ペンネーム「倉本聰」が会社に内緒で脚本執筆していたころ - dot.・2012年12月22日〕。
1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている〔『東芝スーパーサウンドグラフィティ The History of the Radio』(ニッポン放送、1989年1月1日)〕。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している〔。岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている〔『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、角川書店、2004年、165-166頁〕。
その後、東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。1974年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを攻撃する内容に変わっていたので、最終稿まで確認して記事は修正されたが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されぬまま出てしまったことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人からつるし上げられたという〔『愚者の旅』(理論社、2002年)〕〔NHKとはこのトラブルから20年以上絶縁状態にあったが、1999年の『玩具の神様』で復帰した。〕。その日に千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居。
1977年富良野市に移住〔「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(1)」 『毎日新聞』 2009年11月16日、13版、5面。〕〔この移住に際しては、向田邦子から「あんたバカなことおやめなさい。東京を離れたら仕事なンて来ないわよ」と説教されたという(『獨白 2011年3月』p14)。倉本は当時を振り返って「仕事はもうどうでもよくなっていた」と述べている。〕。
1981年、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼ぶ。他に歌志内市上砂川町を舞台とした『昨日、悲別で』の脚本、富良野を舞台に父子の絆の断絶と再生を描く『優しい時間』の原作など、北海道を舞台とした数々のドラマでも有名。
1986年、監督・脚本を担当した映画『時計 Adieu l'Hiver』が公開される〔このときの経験について後年、「もう二度と監督はやらない」と述べている(『獨白 2011年3月』p186 - 187)。〕。
若手の俳優と脚本家を養成するために、1984年に、富良野市布礼別にて「富良野塾」を私財を投じて開設し、26年にわたって主宰した。塾生は受講料は無料で2年間共同生活をし、夏季は地元の農協や農家などの協力を得て畑仕事を手伝い塾生自らが生活費を稼ぎ出し、冬季は集中講義などの他、ふらの演劇工場で行われる演劇公演に向けた稽古をおこなうスタイルだった〔「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(5)」 『毎日新聞』 2009年11月24日、13版、9面。〕。年一回、原始の日(電気・水道・ガスに頼らない、いわゆる原始生活を体験する行事)を設けるなどのユニークな養成術で知られ、脚本家の友澤晃一(第1期)、吉田紀子(第2期)、田子明弘(第3期)、久松真一(第5期)、俳優の加藤久雅(第4期)、二階堂智(第6期)らを送り出した。また、富良野塾の活動を受け市民によって設立されたNPO法人・ふらの演劇工房にも深く関わり、同市に建てられた劇場・ふらの演劇工場にも大きく貢献している。2005年には、閉鎖された富良野プリンスホテルゴルフコースに植樹して、同地を自然の森に戻そうとするNPO法人・C・C・C富良野自然塾を開設し、その塾長に就任している〔〔「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(2)」 『毎日新聞』 2009年11月17日、12版、9面。〕。富良野塾は、倉本の体力の限界を理由として2010年3月末をもって閉塾することが2007年3月末の卒塾式で発表され〔、発表どおり2010年に26年の歴史に幕を閉じた。
2010年4月、北海道教育大学旭川校で演劇講座を監修。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「倉本聰」の詳細全文を読む




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