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佐伯旭 : ミニ英和和英辞書
佐伯旭[さえき あきら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さ]
 【名詞】 1. help 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 
: [あさひ]
 (n) morning sun

佐伯旭 : ウィキペディア日本語版
佐伯旭[さえき あきら]
佐伯 旭(さえき あきら、1917年(大正6年)3月8日 - 2010年(平成22年)2月1日 )は実業家シャープ二代目社長、中興の祖シャープ「中興の祖」、元社長の佐伯旭さん死去 - asahi.com 〕〔毎日新聞、2010年3月12日1、9面〕〔日本経済新聞、2010年3月12日13面〕。広島県出身。
== 来歴 ==
1931年早川金属工業研究所(シャープ)入社。1933年大阪経理専門学校卒業。1947年早川電機工業取締役常務を経て1959年、42歳の若さで専務取締役に就任。創業者・早川徳次に経営を任され実質的社長となり、1970年の正式社長就任を挟んで以降27年間の長きに渡り陣頭指揮を執り一介の町工場、アッセンブリーメーカー(組み立て工場)に過ぎなかったシャープを総合エレクトロニクスメーカーに成長させた〔組織ルーティンの変化プロセス 〕。
専務取締役時代に若手技術者らから直訴され液晶半導体の研究者55人を集結させて全社横断の開発チーム・回路研究室、半導体研究室を発足させる〔。これらの研究のうち極超短波研究は国産初の電子レンジ発売(1961年)を、回路や半導体研究は、シリコン太陽電池の量産(1963年)や、世界初のトランジスタ電卓開発(1964年)、世界初の液晶実用化、CMOS型電卓開発(1973年)、日本語ワードプロセッサー(1977年)などを生み出した〔〔Vol.81 電卓戦争 6桁表示1万円の衝撃 昭和44年~50年ころ(2/2) 〕。この手法は「緊急開発プロジェクトチーム(緊プロ)」として現在も受け継がれている〔。しかし当時のシャープは自前の半導体を待っておらず、電卓に使うICは他社から買っていた。このため1970年大阪万博不参加を打ち出し「シャープ100年の計のため千里から天理へ向かう」と万博へ出展する資金を天理の半導体工場建設にあてた〔〔シャープ:2代目社長の佐伯旭氏が死去-発展の礎築 Bloombergニュース 2010年03月11日、大河原克行のデジタル家電 -最前線- シャープ、中興の祖である佐伯旭氏が死去 〕。これは「千里から天理へ」決断として産業界の伝説となっている。これを機に創業者・早川が代表権のない会長職に退き佐伯は二代目社長に就任、早くから世界を見据え社名を「シャープ」に変更、現在では常識になっているブランド名の統一は専務時代に成し遂げ、総合エレクトロニクスメーカーとしての第2の創業を切る〔産経新聞、2010年3月12日8面〕。
創業者・早川以上の企業家精神を発揮、この後半導体を核とした技術開発力、継続的に差別化商品を生み出していく商品開発力の構築、家電流通構造の転換に対応した新しい販売戦略、財務体制の立て直し、海外での生産など、積極的な経営戦略、選択は成功し電卓の他、ラジカセビデオ複写機などのOA機器が国際市場で次々ヒットし海外事業も一気に拡大した〔シャープ中興の祖 元社長・佐伯旭氏が死去 〕。この他、発売時にはユニークといわれた左右両開き冷蔵庫カメラ付き携帯電話などは現在も主力商品として残る〔。これらをもたらした組織、人材の育成も大きな業績。"技術のシャープ"を作り上げたともいわれた佐々木正、"ニューライフ商品戦略"を確立した関正樹、家電事業を統括した辻晴雄、"電卓博士"と呼ばれ強烈な電卓戦争勝ち抜きの原動力となりOA部門を育て上げた浅田篤ら〔〔23)シャープ会長 町田 勝彦氏 - 神戸新聞 〕。昭和50年代(1975年1985年)の年平均伸長率は売上高18.2%、経常利益37.2%、10年連続増収増益、10年間で売上高約5倍、経常利益18倍という驚異的成長でシャープを大阪の一家電メーカーから、世界のシャープへ、家電から総合エレクトロニクスメーカーへ変身させた。1987年、年商1兆円超えを花道に1986年辻晴雄にバトンタッチし会長に退いた。1987年相談役1998年から最高顧問を務めた。生涯を通じて財界活動に関わらない姿勢を貫いた〔。日本の高度経済成長期を代表する経営者の一人である〔。
2010年2月1日、慢性腎不全のため死去。。
佐伯の後任の第3代社長・辻晴雄の弟、及び第4代社長・町田勝彦は佐伯の女婿にあたる〔。第5代社長・片山幹雄の父も佐伯と親交があった〔「一度“挫折した”経営者の登用、なぜ相次ぐのか 他社の経営中枢で失敗経験をフル活用」 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「佐伯旭」の詳細全文を読む




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