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伊藤機関工業 : ミニ英和和英辞書
伊藤機関工業[いとうきかんこうぎょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [き, はた]
 (n) loom
機関 : [きかん]
 【名詞】 1. (1) mechanism 2. facility 3. engine 4. (2) agency 5. organisation 6. institution 7. organ 
: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
: [たくみ]
  1. (n,adj-na) (1) workman 2. artisan 3. mechanic 4. carpenter 5. (2) craft 6. skill 7. (3) means 8. idea
工業 : [こうぎょう]
 【名詞】 1. (manufacturing) industry 
: [ごう, わざ]
 【名詞】 1. deed 2. act 3. work 4. performance

伊藤機関工業 : ウィキペディア日本語版
伊藤機関工業[いとうきかんこうぎょう]
伊藤機関工業(いとうきかんこうぎょう)は、1950年(昭和25年)から1962年(昭和37年)まで愛知県名古屋市に存在した、日本のオートバイメーカーである。IMC号と名付けられたオートバイを生産していた。
== 歴史 ==
戦時中、三菱航空名古屋機械製作所に勤めていた伊藤仁一が1947年に興した個人経営の伊藤モータースが前身である。伊藤モータースでは、旧日本軍が放出した78ccの2ストロークエンジン(戦車の電源充電用に使われていた物〔『日本モーターサイクル史』(p.132)〕)を自転車に取り付けるためのバイクモーターへと流用し、ハヤブサ号として発売した。ハヤブサ号は良好な始動性と高性能によって人気となり、放出エンジンのストックを使い切ってしまった伊藤は、エンジンの製造元であったトーハツに新たなエンジンの製造を依頼した。ところが、トーハツは伊藤に断り無く同じエンジンを使ったバイクを発売してしまい〔『日本モーターサイクル史』(p.756)〕、伊藤はトーハツとの差別化のためにハヤブサ号のフレームに改良を加え、B型、C型とモデルチェンジを繰り返した。
1950年、伊藤は伊藤モータースを法人化して伊藤機関工業株式会社とした〔。同時にハヤブサ号のモデル名を三菱製の148ccエンジンを積んだD型からはIMC号とし、IMC D型として発売した〔『日本モーターサイクル史』(p.135)〕。IMCとは「伊藤モーターサイクル」の略である〔『名古屋オートバイ王国』(p.172)〕。伊藤は一貫して「一流品のエンジンを調達し、自前のフレームに搭載する」という主義をとったが〔、当時の中小規模のオートバイメーカーはほとんどがこのように他社製のエンジンや部品を購入して組み立てるという、所謂アッセンブリメーカーだった〔『名古屋オートバイ王国』(p.102)〕。
1952年には当時のこのクラスとしては珍しい油圧式テレスコピックフロントフォークを採用したIMC F型(148cc空冷4ストローク単気筒)を発売〔『日本モーターサイクル史』(p.143)〕。この年、昭和区に100の土地を買い取って新工場を建設し、工員50人、月産200台の規模となっていた〔。
オートバイブームがピークを迎えつつあった1953年、地元の名古屋市周辺の公道を使った名古屋TTレースが開催され、IMC号チームは出場した3台が全て完走して全19メーカー中総合7位を獲得した〔『名古屋オートバイ王国』(p.129)〕。また、同年には片山産業製のオリンパスエンジンを搭載して飛躍的に性能向上を果たしたH型が発売された〔『日本モーターサイクル史』(p.155)〕。
1954年発売のIMC K型はみづほ自動車製作所(キャブトン)製の249ccエンジンを搭載し、『モーターサイクリスト』誌主催のモーターサイクルスタイルコンクールで1位に選ばれ「最も美しいモーターサイクル」とまで言われた〔『日本モーターサイクル史』(p.269)〕が、翌1955年、当のみづほ自動車製作所が同じエンジンを搭載したみずほ号を低価格で売り出した上に、他社へのエンジン供給を一方的に停止してしまう〔『名古屋オートバイ王国』(p.175)〕。IMCはやむを得ず川崎航空機製のエンジンに積み替えたM型で対抗した。また1955年には、前年に車両法の改正によって原付2種の排気量が125cc以下となったのに合わせ、富士自動車製2ストロークのガスデンエンジンを積んだIMC NB型を発売した〔『日本モーターサイクル史』(p.757)〕。
1956年、それまでの工場が手狭になったために名古屋市港区に新たに760坪の土地を購入して工場を建て、翌1957年から新工場で操業を開始した〔。この頃にはすでに乱立していたオートバイメーカーの淘汰が始まっており、みづほ自動車製作所も無理な低価格戦略が祟って1956年には倒産していた。それでも伊藤機関工業は、社長を含めて出張には3等車を使うなどといった徹底的な経費節減によって経営を維持し、最盛期の月産300台を守り続けた〔。同年にはNB型の車体に200ccのガスデンエンジンを搭載したIMC P型を発売し、以後IMCは全ての車体にガスデンのエンジンが搭載されることになる〔『日本モーターサイクル史』(p.197)〕。
しかし1959年9月26日、伊勢湾台風が名古屋を直撃し、港区にあったIMCの工場も高潮によって水没する被害を受けた。エンジンを始めとする部品は全て潮水をかぶって使い物にならなくなり、工場は2ヶ月の間休業せざるを得なくなった。ちょうど庶民の足としてのオートバイの競争相手としてミゼットなどの軽3輪軽4輪が台頭してきた時期であり、またホンダヤマハなどの強力なライバルメーカーが猛攻をかけてきた時でもあった。そんな時の大打撃に加えて休業中に代理店が他社に乗り換えるといった痛手もこうむり、この時を境として伊藤機関工業は一気に衰退していくことになる〔。
1960年には125cc単気筒のBA型や、BA型を2気筒エンジンに換装して高性能化したBC型〔『日本モーターサイクル史』(p.268)〕、ホンダドリームを意識したサスペンションやフレームを採用したKB型(250cc)〔『日本モーターサイクル史』(p.273)〕などの新製品を投入するがかつての勢いを取り戻すことはできず、1961年、ついに収支が赤字に転じた。そんな中で起死回生を図って従来のプレスフレームからパイプフレームに変更したスポーツモデルのBD型を計画したが、完成したのはわずかに1台だけであった〔『名古屋オートバイ王国』(p.148)〕。伊藤は会社を整理することを決心して債権者に整理宣言を行い、市場で稼動しているIMCの修理のために部品の販売だけを継続し、購入時の10倍以上に値上がりしていた工場の土地を売却して赤字を埋めた。1962年に会社は中部日産ディーゼルに吸収合併され、伊藤機関工業は消滅した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「伊藤機関工業」の詳細全文を読む




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