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享徳地震 : ミニ英和和英辞書
享徳地震[きょうとくじしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ち]
  1. (n,n-suf) earth 
地震 : [じしん]
 【名詞】 1. earthquake 

享徳地震 : ウィキペディア日本語版
享徳地震[きょうとくじしん]
享徳地震(きょうとくじしん)は室町時代に発生した東北地方が中心と考えられる地震
記録が乏しい歴史地震であるため、規模震源域など詳細は不明である。
== 概要 ==
『新選和漢合図』、『大宮神社古記録抄』、『続本朝通鑑』および『会津旧事雑考』に享徳3年11月23日(ユリウス暦1454年12月12日、グレゴリオ暦12月21日)夜中に大地震が発生したとする記録がある。強震であったのは少なくとも上野上総および会津に及ぶとされる〔近代デジタルライブラリ 文部省震災予防評議会 『大日本地震史料 増訂』 1940年、1巻p403〕。
『大宮神社古記録抄』には「廿三日夜剋大地震ヨルヒル入」とあり、夜中の0時から2時あたりに地震が発生したことになるが、当時の一日の境界は3時頃とするのが慣習とされていたため〔宇津徳治、吉井敏尅、嶋悦三、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、1987年〕、今日の暦法では享徳3年11月24日(ユリウス暦1454年12月13日)と解釈される〔宇津徳治(2009) 宇津徳治 『世界の被害地震の表』〕。
さらに『王代記』に奥州の大津波の記録が存在することが判明している〔古代中世地震史料研究会 地震・噴火史料データベース(β版)〕。
「百」を物理的距離と解釈するには無理があるが、かなり内陸まで津波が遡上し、引き際に人々が多く流されたことを窺わすものである。
また、『大日本地震史料 増訂』では、「上野、上総、並ビニ会津強ク震フ」とされていたが、例えば『会津旧事雑考』の記事は会津における地震記録であるのか、本地震の広域的な様子一般を示す記事であるのか断定できず、現時点で確かに言えることは奥州の津波のみであるとされる〔 行谷佑一,矢田俊文(2013):[講演要旨]享徳三年(1454年)に奥州を襲った津波, 歴史地震, 第28号, 167.〕。一方で、『王代記』にはそれに続く『年代記』Aと『年代記』Bがあり、『年代記』Aは「奥州ニ津波打テ、百里山ノ奥ニ入テ・・」となっており、「百里」と「山ノ奥」の語順の違いに着目すれば「海岸線100里にわたって津波が山の奥まで入り」と解釈することも可能であり、その場合は地震・津波が2011年東北地方太平洋沖地震に匹敵する規模であったことも考えられるとの指摘もある〔 石橋克彦(2015):[講演要旨]1454(享徳三)年に奥州に大津波をもたらした地震について, 歴史地震, 第30号, 207.〕。
この地震の17日後の12月10日(ユリウス暦12月29日)には鎌倉でも大地震があり、また約1ヶ月後の端宗王2年12月甲辰(ユリウス暦1455年1月15日)、李氏朝鮮慶尚道および全羅道で大地震があったことが『李朝実録』の記録にある〔。
享徳地震の約1ヶ月後、享徳3年12月27日(ユリウス暦1455年1月15日)には享徳の乱が発生しており、地震災害が政治的混乱を引起した例が少なからず存在することから、この地震と内乱との関連性も指摘されている〔房日新聞:講演抄録 峰岸純夫(2012): 享徳の乱と里見義実 大地震が戦乱発生の契機に 義実は美濃里見氏の養子か〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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