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中村政美 : ミニ英和和英辞書
中村政美[なかむら まさみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

中村政美 : ウィキペディア日本語版
中村政美[なかむら まさみ]

中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日鎮魂の碑(野球殿堂博物館) 〕 - 1945年1月29日中村政美 : ボンビーメンブログ 〕)は長崎県出身のプロ野球選手
== 来歴・人物 ==
長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)在学中に、投手として1941年夏の甲子園長崎県大会に出場し、決勝で鎮西学院を下して優勝した。(その後に参加予定だった北九州大会及び本大会は、戦局の悪化により中止となった。)
1943年東京巨人軍に入団。背番号は34背番号34 - 背番号Maniax - 〕。この背番号は1970年4月2日に、金田正一が付けていた番号として永久欠番になったが、巨人軍で初めて背番号34を付けたのが中村だった。投手として入団するも、戦争の激化により応召される選手が続出し、巨人軍と言えども選手不足に陥る状況にあったため、野手(三塁手)としての出場の方が多くなっていった。
10代の若さで入団した故、最初は苦労していた面もあったが、1943年終盤より台頭し始めた。1943年11月7日、このシーズンの最終戦でもある阪神戦(後楽園球場)で初めて4番に座った〔(巨人軍第10代4番打者となる〔)。翌1944年シーズンは開幕戦を含めた26試合(全35試合中)で4番を任され、戦時中の物資不足で公式球の質が悪化していた中で打率.220、本塁打1本(ちなみにこの年の本塁打王は、金山次郎産業〉の3本)の成績を残した。シーズン中盤には、右翼手としても出場した。
1944年シーズン終了後に応召。翌1945年1月29日、戦死した〔(死没場所は不明)。享年20。東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑に彼の名が刻まれている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中村政美」の詳細全文を読む




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