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三好英之 : ミニ英和和英辞書
三好英之[みよし ひでゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [これ]
 (int,n) (uk) this

三好英之 : ウィキペディア日本語版
三好英之[みよし ひでゆき]

三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎明治18年(1885年8月29日〔衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、25頁。〕 - 昭和31年(1956年2月14日)は、日本実業家政治家。元衆議院議員参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民〔『人事興信録. 4版』(大正4年)み九〕。
大正13年(1924年衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった〔近代史を飾った 西部人物伝 〕。家系清和源氏小笠原氏支流三好氏三好氏系譜(武家家伝) 〕。
== 経歴 ==
米子道笑町商家に生まれる。三好常次郎の次男〔『勝田ヶ丘の人物誌』47頁に「ひと口に米子の三好といってもその系統は多岐に分かれている。米子の街にいまも古老の記憶に残っている家の名に“砂糖三好”、“三好”などというのがあるが、いずれも十数代わたる老舗(しにせ)を誇る、富商の系譜をあらわしたものである。」とある〕。
県立第二中学校(現米子東高校)〔『勝田ヶ丘の人物誌』47頁に「米中出身最初の国務大臣である。もとの名は栄次郎。もっとも彼は米中を卒業してはいない。五年生になった時、上京して京華中学校に転校したからである。」とある。ただし、米子東高校同窓会名簿には名前の記載がある〕、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
郷里に帰り、山陰日日新聞社を創立、言論をもって政治への志向を訴え、大正3年(1914年山陰青年団を結成。憲政擁護、地方自治伸張の論陣を張る。
1912年山陰実業銀行を設立、頭取は三好、専務後藤快五郎
大正13年(1924年)の第15回衆議院議員総選挙無所属で立候補し初当選。
昭和2年(1927年立憲民政党の結成に参加。戦前は米内内閣陸軍政務次官大政翼賛会中央協力会議員、翼賛政治会衆院部長等を歴任した。また院内では商工委員会に属していた関係から岸信介と親交を結んだ。戦後日本進歩党の結成に参加したが公職追放となった。
追放解除後は、いったん民政旧友会を結成したが、武知勇記らと共に岸信介を担いで保守新党を結成しようと画策。国民民主党と合同して保守新党を結成しようとする大麻唯男松村謙三らと対立し新日本政治経済調査会を結成。更に旧民政党系以外の政治家も加えて日本再建連盟を結成し理事長に就任した。
日本再建連盟は昭和27年(1952年)の総選挙に十数名の候補者を擁立したが、当選したのは武知勇記1人だけで三好を含めた他の候補は全て落選。翌年の参議院選挙に無所属で立候補し当選。
昭和29年(1954年日本民主党の結成に参加し、第1次鳩山一郎内閣北海道開発庁長官に就任。昭和30年(1955年保守合同により自由民主党の結成に参加。
自民党結成後3か月後の昭和31年(1956年)2月14日、東京第二国立病院において死去。は米子市寺町の福厳院にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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