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七夕祭り : ミニ英和和英辞書
七夕祭り[たなばた]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しち]
  1. (num) seven 
七夕 : [たなばた]
 【名詞】 1. (1) Festival of the Weaver (July 7th) 2. Star Festival 3. (2) prayer ceremony for children's artistic development 
: [ゆうべ, ゆう]
 (n) evening
: [まつり]
 【名詞】 1. festival 2. feast
祭り : [まつり]
 【名詞】 1. festival 2. feast 

七夕祭り ( リダイレクト:七夕 ) : ウィキペディア日本語版
七夕[たなばた]

七夕(たなばた、しちせき)は、中国台湾日本韓国ベトナムなどにおける節供節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。旧暦では7月7日のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦以降、お盆が新暦月遅れ8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。
古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。
そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある〔西村白鳥 編「煙霞綺談」吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)、1927年,582頁〕。
織女と牽牛の伝説は『文選』の中のの時代に編纂された「古詩十九首〔古詩十九首之十、迢迢牽牛星(無名氏) 〕」が文献として初出とされている〔『詩経』の小雅、谷風之什の『大東』にも牽牛と織女の名が出ているが、恋愛伝説の形にはなっていない。〕が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝梁代殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている〔『小説』の原典は失われているが、明代馮應京(ひょう おうきょう)が万暦年間に著した『月令広義』にこれが引用されている(「七月令」・「牛郎織女」項 )。〕
日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会〔直木孝次郎 他訳注『続日本紀1』平凡社(東洋文庫457)1986年、237頁の注14〕)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた〔中村義雄「七夕」『国史大辞典』〕。その後平城天皇7月7日に亡くなると、826年天長3年)相撲御覧が別の日に移され〔山中裕「相撲節」『国史大辞典』〕、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった〔。
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん〔中村義雄「乞巧奠」『国史大辞典』〕、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い〔「乞巧奠」『日本国語大辞典』〕、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた〔山中裕「乞巧奠」『日本第百科全書』〕。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
== 風習 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「七夕」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Double Seventh Festival 」があります。




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