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一条忠頼 : ミニ英和和英辞書
一条忠頼[いちじょう ただより]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いち]
  1. (num) one 
一条 : [いちじょう]
 【名詞】 1. streak 2. matter 3. quotation 

一条忠頼 : ウィキペディア日本語版
一条忠頼[いちじょう ただより]

一条 忠頼(いちじょう ただより)は、平安時代末期の甲斐国武将甲斐源氏武田信義の嫡男。甲斐国山梨郡一条郷(山梨県甲府市)を領し、一条氏と名乗った。
== 経歴 ==
治承4年(1180年)8月、武田信義を棟梁とする甲斐源氏が挙兵する。甲斐源氏は隣国である信濃の平氏家人や駿河目代を攻撃して勢力を拡大し、10月には平氏が送り込んだ追討軍を富士川の戦いで撃破して、駿河遠江を制圧した〔『吾妻鏡』は頼朝が信義と安田義定を、それぞれ駿河守護・遠江守護に任じたとするが、この段階では頼朝の勢力は足柄以西には及んでいないため、編者による曲筆と思われる。〕。
吾妻鏡』における忠頼の初見は9月10日条の諏訪攻撃の記事で、兼信・有義・信光ら他の兄弟よりも早い。内乱前は任官歴があり、源氏の通字「義」を継いだ有義が嫡流だったと思われるが、内乱期は忠頼が甲斐源氏の中心として活躍することになる〔『延慶本平家物語』は忠頼が二万騎を率いて富士川の戦いに参戦したとするが、有義は『平家物語』に登場しない。〕。
富士川の戦いの後、忠頼はしばらく史料から姿を消すため詳しい動向は不明だが、父の代理として新たに勢力圏となった駿河の在地支配を行っていたと考えられる。
寿永2年(1183年)7月、木曾義仲は京へ進撃して平氏を西国へ追いやった。『愚管抄』はこの時に「東国の武田」も入京したとするが、『吉記』7月30日条の京中守護諸将の中に信義・忠頼父子の名はなく、甲斐源氏は安田義定のみである。遠江を実効支配して半ば自立していた義定は独自の判断で入京したと思われるが、これは甲斐源氏の結束が弱まり一枚岩ではなくなっていたことを示すものといえる。義仲は治安回復の失敗・皇位継承問題への介入・法住寺合戦による後白河法皇幽閉などで孤立し、翌寿永3年(1184年)正月20日、源範頼義経軍の攻撃で敗死した。
『吾妻鏡』正月20日条には「一条次郎忠頼已下の勇士、諸方に競ひ走り」とあり、忠頼が軍勢を率いて義仲追討戦に参加していたことが確認できる。特に粟津の戦いでは都落ちした木曾義仲軍を撃破し、追い詰めた。しかし、続く一ノ谷の戦いでは安田義定は『吾妻鏡』に範頼・義経と同格の扱いで記載されているが、忠頼の名はない。京都に留まって治安維持の役割を担っていたとも考えられる。
平氏の屋島への撤退により軍事的脅威はひとまず去り、一部の残留兵力を残して遠征軍の大半は東国に帰還した。忠頼もこの時に東国に戻ったと思われる。それからまもなくの6月16日(『延慶本平家物語』では4月26日)、鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に、頼朝の命を受けた天野遠景によって暗殺された。
一条氏の家督は、頼朝に協力した弟・信光の次男である一条信長が継承した。忠頼は一条郷のうち一条小山に居館を構え、後に時宗寺院の一蓮寺が創建される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「一条忠頼」の詳細全文を読む




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