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ヴォー・グエン・ザップ : ミニ英和和英辞書
ヴォー・グエン・ザップ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴォー・グエン・ザップ : ウィキペディア日本語版
ヴォー・グエン・ザップ[ちょうおん]

ヴォー・グエン・ザップ(, 漢字:武元甲、1911年8月25日 - 2013年10月4日)は、ベトナム軍人政治家ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍 (QĐND) 総司令官。最終階級は大将であった。
優れた軍事戦術家であったザップは、フランス植民地支配の際、ディエンビエンフーの戦いによって、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。その名采配から、西側諸国からは「赤いナポレオン」と呼ばれ、ベトナム人民からは「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めた。
==経歴==

=== 独立運動 ===

1911年(1912年説あり)、フランス領インドシナクアンビン省に生まれる〔Asian Heroes , Time Magazine〕。父のヴォー・クアン・グエンと母のグエン・チー・キンは地主であり、何不自由ない幼少期を過ごした。
父は炭鉱職員として働く傍ら独立運動家でもあり、ザップが生まれる前にも2度独立運動に参加していた。しかし1919年、植民地政府の転覆計画にかかわったとして逮捕され、その数か月後に獄死した。また同時期にザップの姉も逮捕され、間もなく釈放されたものの数週間後に病死した〔Macdonald, Peter (1993). Giap: The Victor in Vietnam, p.19〕。
兄から自宅で教育を受けたのち、1924年、当時の首都フエ国学(国立リセ)に入校した〔。
なお、のちに南ベトナムの大統領となるゴ・ディン・ジエム(父が学校の設立者)、ホー・チ・ミンも同学校の出身である〔Macdonald, Peter (1993). Giap: The Victor in Vietnam, pp.19–20〕。しかし1926年、学生組織を組織したことで退学処分となり、帰郷。このころ、地下組織であった新ベトナム革命党(en)に入党し、そこで共産主義思想に触れた〔Macdonald, Peter (1993). Giap: The Victor in Vietnam, p20〕。フエに戻ったザップは学生運動に身を投じるも逮捕。懲役2年の判決を受けラオ・バオ刑務所(en)に収監される。13か月後、証拠不十分で釈放〔Macdonald, Peter (1993). Giap: The Victor in Vietnam, p21〕されたザップはインドシナ共産党に加入〔。反政府デモに参加したことで、2年間刑務所に服役する。
出所後の1933年、インドシナ大学(現ベトナム国家大学ハノイ校)(アルベール・サロ学校との説もあり〔Currey (2005), pp. 28–31〕)に入学〔〔Currey (2005), p. 36〕 。法学と政治・経済を学んだ。
在学中、下宿先であった大学教授〔Macdonald, Peter (1993). Giap: The Victor in Vietnam, p.22〕の娘グエン・チー・ミン・ジャンと出会う〔。ともに独立運動に参加していた二人は相思相愛となり、1938年5月に結婚。翌年、一女ホン・アンをもうける〔。
在学中のザップは、学生運動に熱中するあまり学業をおろそかにしてしまい、行政法審判官の試験に落第してしまった。法律家としての将来を閉ざされたザップは、ハノイ市内にあるタンドン学校の歴史教師として教鞭を振る傍ら、ヒュン・チュク・クアン(en)の「人民の声」をはじめ多くの革新系新聞にベトナムの社会・経済情勢、国際問題に関する多数の記事を寄稿した。また、自らも地下新聞「Hon Tre Tap Moi」や仏語紙「Le Travail」(これにはファム・ヴァン・ドンも参加している)を発行〔Willbanks (2013), p. 229〕。同じく共産党員であったチュオン・チンと『農民問題』を共著した。
また同時期、ザップが興味を持つようになったのが軍事学・哲学であった。彼は孫子を尊敬し、ナポレオンのリーダーシップについて研究し、トーマス・エドワード・ロレンスの「知恵の七柱」に感銘を受けた。これは後年、彼の指揮官としての能力を発揮させる大きなきっかけとなった〔Macdonald, Peter (1993). Giap: The Victor in Vietnam, p.23〕。
1939年に、フランス植民地政府によりインドシナ共産党が禁止され、ザップは中華民国内の中国共産党支配地域に亡命した。ザップの妻と従姉妹は、フランス当局により逮捕され獄死した。1940年にザップはホー・チ・ミンと出会い、間もなく彼の側近の1人となった。1942年11月、カオバンの第一回ベトミン全省代表大会が開催され、他の地区への運動拡大方針が決定されると、ザップはレ・ティエト・フン (Le Thiet Hung) と共に南進の責任者となった〔古田(1991年)、262ページ。〕。第二次世界大戦下の1944年に、ベトナム解放軍の前身であるを組織し、1945年の八月革命時の権力奪取の際、重要な役割を果たした。
1945年4月15日から20日の北圻軍事会議において、各武装勢力をベトナム解放軍に統合すること、全国に7つの戦区を設置することが決定され、北圻軍事委員会が設置されると、同委員に任命された〔古田(1991年)、267ページ。〕。さらに5月15日、ベトナム解放軍が正式発足すると、最初の司令部をザップ、チャン・ダン・ニンチュー・ヴァン・タンの3人で構成した〔。同年8月、インドシナ共産党中央常務委員会(後の政治局)委員に選出。同年9月、ベトナムの独立宣言とともに、臨時政府の内務大臣に任命された〔1945年9月2日に国民同胞に公表された臨時政府 〕。
1946年1月1日、ベトミンと他党派による臨時連合政府が成立すると内務大臣に留任〔臨時連合政府(1946年1月1日設立) 〕。1946年3月2日、第1期国会第1回会議において、抗戦連合政府の抗戦委員会主席に選出〔抗戦連合政府(1946年3月2日設立) 〕。11月3日、ホー・チ・ミン内閣の国防大臣に任命された〔新政府(1946年11月3日-1955年) 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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