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ヴィエコスラヴ・チュリッチ : ミニ英和和英辞書
ヴィエコスラヴ・チュリッチ[らヴ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love

ヴィエコスラヴ・チュリッチ : ウィキペディア日本語版
ヴィエコスラヴ・チュリッチ[らヴ]
ヴィエコスラヴ・チュリッチクロアチア語:、1957年4月26日 - 1998年1月31日)、あるいはヴィエコ・チュリッチは、フランシスコ会の司祭で、人道活動家である。ルワンダで人道支援と伝道活動を行い、フランシスコ会ボスナ・スレブレナ管区()に属する殉教者となったことで知られる。
1957年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国ボスニア・ヘルツェゴビナのルポグラヴ(Lupoglav、ジェプチェ市)にてクロアチア人の家庭に生まれる。サラエヴォにて神学を学び、1976年からフランシスコ会に入る。1982年に司祭となった。
パリにて伝道活動の準備をした後、1983年からルワンダでの活動に入る。現地の習慣や部族の言語を学ぶことを目指すフランシスコ会の「アフリカ計画」に従い、地元の人々の物的・精神的な要求に応える活動を行った。1994年、ルワンダでフツツチとの間の対立が発展し、ルワンダ虐殺が引き起こされた。ほぼすべての白人がルワンダを去る中、チュリッチはこの国に留まり続けた。彼はインテラハムウェの脅迫にあいながらも、公然と暴力を非難し、統一と平和を訴え続けた。
紛争終結後の1998年1月31日、キヴマ (Kivuma) にて何者かに襲撃されて死亡し、彼とその支持者たちによって築かれた地元の教区教会にて埋葬された。翌日、ローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世は、バチカンサン・ピエトロ広場での演説中にチュリッチに言及した。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴィエコスラヴ・チュリッチ」の詳細全文を読む




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