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ローマ皇帝一覧 : ミニ英和和英辞書
ローマ皇帝一覧[ろーまこうていいちらん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
皇帝 : [こうてい]
 【名詞】 1. emperor 
: [みかど]
 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence 
: [いち]
  1. (num) one 
一覧 : [いちらん]
  1. (n,vs) (1) at a glance 2. (a) look 3. (a) glance 4. (a) summary 5. (2) (school) catalog 6. catalogue 

ローマ皇帝一覧 : ウィキペディア日本語版
ローマ皇帝一覧[ろーまこうていいちらん]

ローマ皇帝一覧(ローマこうていいちらん)では、古代ローマ帝国で正当と見なされたローマ皇帝を年代順に列挙する。
==解説==
ローマ皇帝という名称は幾分、現代的な用法であって必ずしも当時の人間がその様に呼称したものではないし、時代毎に制度上の位置付けも変動している。しかしどうあれ、アウグストゥス以降にローマという国家で定着した「個人に専制的な権限を与える習慣」を端的に表現する上で、的確な用語であると多くの場合で見なされている。古代に地中海世界において強大な勢力圏を作り上げたローマは、共和制から君主制へと大きく政治制度の改革を行い、議会政治(「元老院及びローマ市民」)から個人による独裁への転換を事実上容認するようになった。
しかし、こうした体制を確立したアウグストゥスは、元老院議会)への配慮から共和制を建前上は維持する道を選び、「共和制における独裁」を模索した。従ってアウグストゥスはかつて存在した「ローマ王」や、それに比類する如何なる爵位や君主号を拒否した〔Holland, ''Rubicon'', p.??〕。その一方で共和制に存在した様々な役職や特権を自らや一族の独占とし、更に元老院を監督する立場にあるプリンケプス・セナートゥスを終身の称号として受け取った。アウグストゥスと共に初期のローマ皇帝とされる人々も一様にこうした方策で独裁体制を築き上げたため、独裁的で血統主義的な要素(アウグストゥスも最後まで親類での権力継承を望んだ)を持ちつつも、議会が一定の力を維持していた。歴史学者達はこれを「元首政」と呼び、単なる「専制的な君主制」とは異なるものであると評価している。
元首政は帝政時代の半分を占める300年間ほど維持されたが、セウェルス朝末期の混乱と断絶によって各地の将軍による帝位簒奪と内乱が繰り返される「3世紀の危機(軍人皇帝時代)」が始まり、帝国は急速に荒廃していった。こうした状況下で帝位を獲得したディオクレティアヌスはより強大な君主制が必要と考え、共和制や終身元首といった建前を完全に捨てて専制君主としての制度を整備した。その象徴として実質的な君主号であったプリンケプスに変わり、「我らの主」を意味するドミヌス・ノステルを用いたことから、歴史学者達はディオクレティアヌス以降の帝政を「専制君主制」と呼称している。
また、ディオクレティアヌスは帝国の領域を東西に二分すると、共同皇帝マクシミアヌスに西半分を預けて帝国領の分割統治を開始する(西方正帝・東方正帝)。更に副帝もそれぞれ東西ごとに一人ずつ設置(西方副帝・東方副帝)して、それぞれの統治権を更に分担させる事で最終的に帝国は四つの領域に分けて分割統治された(テトラルキア制)〔Starr, ''A History of the Ancient World'', pp.670-678.〕。テトラルキアは結果的にローマ帝国の政治的分裂(西ローマ帝国東ローマ帝国)という結末を招くが、政治的には独自の行動を取り合うようになった後も、法律的には一つの国家という立場を両国は維持し続けた。例えばディオクレティアヌスが東方正帝であった関係から東方正帝は西方正帝より格上であったが、東ローマ皇帝も西ローマ皇帝を従える権限を持っていた。
その後、西ローマ帝国は初代皇帝ホノリウスの無能さもあって対外戦争で苦戦を強いられ、テオドシウス朝断絶後は明確に没落し、476年に最後の皇帝が追放されて滅亡した。対する東ローマ帝国は同じく軍事的危機を迎えながらも乗り越え続け、中世を経て近世にオスマン帝国に滅ぼされるまで存続した〔Asimov, p. 198.〕。また前述の制度から、西ローマ崩壊後は自動的に東ローマ皇帝が西ローマ皇帝の権限を兼ねる(テトラルキア制からいえば東方正帝と西方正帝の兼務)こととなり、法律的にはローマ再統一が果たされたことになる。
以下に示される皇帝一覧は正式な皇帝として認可された者のみを記載するが、どのような経緯を持てば「正当な皇帝」と呼べるのかは、上記の複雑な帝位の成立経緯や変遷から容易でない。しばしば「正当な皇帝」は以下のような判断基準で決められていった。
*経緯はどうであれ、帝国全土を統治できるだけの権力を掌握した者(1)
*「正当」とされた皇帝から権限を譲られた後継者(2)
*1にも2にも当てはまらないが、元老院から指導者として認められた者(3)
例えば、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは当時の皇帝であったクィンティッルスの後継者ではなかったが、蛮族に対する極めて優秀な活躍から軍の実権を掌握して、正当な皇帝として周囲から追認を受けていった。また逆にガリエヌスは最後まで帝国全土を掌握できなかったが、法的に先帝ウァレリアヌスの子息であったから、多くの場合で正当な皇帝と見なされている。そしてクラウディウス・ゴティクスは帝国全土を掌握できず、また先帝ガリエヌスを殺害して帝位を奪った明確な簒奪者であったが、市民や元老院から熱狂的な支持を受けて皇帝と見なされていた。
複数の皇帝が並び立った場合、四皇帝の年に蜂起した4人の帝位請求者は最後に勝利したティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス以外の三者もこれらの条件を満たして、それぞれが正当な皇帝とされていた。しかし五皇帝の年に蜂起した5人の帝位請求者はペルティナクスディディウス・ユリアヌス、そして最後に勝利したセプティミウス・セウェルスの三名のみが条件を満たしており、クロディウス・アルビヌスペスケンニウス・ニゲルの二名は正当な皇帝としての条件を最後まで満たせず、僭称帝という立場でセウェルスに敗れている。また「共同皇帝」という2人の皇帝が共同統治を行う制度も存在しているが、しばしば共同皇帝の片方が実権を持たない場合も散見される。これは法律的には正当な皇帝と見なされるが、実権を持たなかった事を付記する必要がある。
395年以降は西ローマ・東ローマとして、ローマが政治的に東西分離する時代を迎えることになる。だが政治的にはどうであれ、法律的にはそれぞれがテトラルキア制に基づいた合法的な皇帝(東方正帝と西方正帝)であり、記載する上で特段の問題は存在しない。西ローマの最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスも、「強奪者型」の皇帝として一応は正当であったと判断される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ローマ皇帝一覧」の詳細全文を読む




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