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ロン・デニス : ミニ英和和英辞書
ロン・デニス
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ロン・デニス : ウィキペディア日本語版
ロン・デニス

ロン・デニスSir Ron Dennis CBE, 1947年6月1日- )は、マクラーレン・グループのグループCEOであり、イギリスF1コンストラクター、マクラーレン・レーシングの総帥である。完璧主義で知られる。
==来歴==
銀行員。1967年からメカニックになり、クーパーブラバムヨッヘン・リントジャック・ブラバムのパーソナル・メカニックを務める。1971年、同僚のニール・トランデルと独立してロンデル・レーシングを作り、F2に進出した。ロンデルはF1進出計画も立てたが、オイルショックの影響で実現には至らなかった。
その後、新たにプロジェクト3を興し、F2やF3で成功を収め、1979年にはマールボロの支援を得てプロジェクト4に移行する。マールボロはマクラーレンF1チームのメインスポンサーでもあったが、成績低迷のてこ入れとしてチーム運営に介入し、1980年後半にプロジェクト4と合併させマクラーレン・インターナショナルへと改組した。デニスはチーム監督に就任し、テディ・メイヤーら旧体制は実質的な「乗っ取り」により刷新された。このことにより、以後に作られたマシンはマクラーレンの(マルボロの)「M」とプロジェクト4の「P4」を掛け合わせ「MP4」シリーズと命名される。
デニスはさっそくリーダーとしての手腕を発揮し、デザイナーのジョン・バーナードを招聘してカーボンモノコックシャーシMP4/1を製作させた。また、TAGの資金協力でポルシェターボエンジン開発を依頼。ドライバーも、一度F1を引退したニキ・ラウダを復帰させ、アラン・プロストを獲得。その後、1984年からドライバーズタイトルを3連覇、コンストラクターズタイトルを2連覇した。
1988年にはホンダエンジンと提携し、プロストとアイルトン・セナを組ませて16戦中15勝という成績を残し、再びドライバーズタイトル&コンストラクターズタイトルを獲得した。しかし、その期間はジョイント・ナンバーワン体制が原因でプロストとセナの関係に軋轢を生み、デニスは両者の扱いに苦慮することになる〔デニスは、後にプロスト引退の際、セナとの関係修復をとりなした。〕。1990年からプロストに代わり、ゲルハルト・ベルガーを迎えたが、マクラーレンは結局1991年まで、4年連続でダブルタイトルを獲得した。
1992年以降、マクラーレンは低迷期に入ってしまう。トップチームに返り咲いたウィリアムズや、台頭してきたベネトンらとタイトル争いができなくなっていた。ホンダとの提携終了からエンジンがフォードコスワースプジョーと毎シーズン度重なる変更による戦闘力、技術力の低下と、セナの移籍やナイジェル・マンセルは加入したもののわずか3か月で引退と、チームマネージメントの不安定な時期が続いていた。
その一方でドライバーは若手のミカ・ハッキネンを抜擢し、1995年からメルセデスベンツとの提携から、チーム力が徐々に回復し始めた。1996年にはデビッド・クルサードをチームメイトに登用し、1997年にはエイドリアン・ニューウェイを招聘、1998年からブリヂストンタイヤとも提携をした。その成果が実を結び、同年ハッキネンがドライバーズタイトルを、チームはコンストラクターズタイトルを獲得し、1991年以来のダブルタイトル獲得を成し遂げ、トップチームに返り咲いた。
1999年にハッキネンがドライバーズタイトルを再び獲得したが、コンストラクターズタイトルは取り逃がした。その後、2000年2001年2003年2005年2007年もタイトル争いをして今一歩で及ばなかったが、2008年ルイス・ハミルトンがドライバーズタイトルを9年ぶりにもたらした。
2009年1月16日の新車発表会において、3月1日をもってチーム代表を退任しマーティン・ウィットマーシュにその座を引き継ぐことを表明した。この際、今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言しレース界からの引退は否定した。しかし、4月16日にマクラーレン・グループ全体の構成の見直しにより、同グループの市販車部門である「McLaren Automotive company」がグループから離脱することとなったのに伴い、デニスはMcLaren Automotive companyの会長に就任し、レース部門から完全に引退することが明らかにされた〔McLaren restructures Group to create independent McLaren Automotive company (2009年4月16日)〕〔ロン・デニス、マクラーレンF1を完全に引退 - F1-Gate.com〕(なお実際には市販車部門のグループからの分離は行われなかった)。
その後2012年にはマクラーレン・グループ全体のCEOの座もウィットマーシュに譲り、自身はグループ全体及び市販車部門の会長として一歩引いた形となっていたが、2014年1月にグループCEOに復帰したのみならず、F1チームの指揮権も掌握〔ロン・デニスがマクラーレンF1部門のボスに復帰 - オートスポーツ・2014年1月17日〕。その後ウィットマーシュはチームのWebサイトから名前が消え、一応F1チームの代表はロータスから移籍してきたエリック・ブーリエらが担当するものの、デニスがグループのトップに返り咲いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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