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テディ・メイヤー : ミニ英和和英辞書
テディ・メイヤー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テディ・メイヤー : ウィキペディア日本語版
テディ・メイヤー[ちょうおん]

エドワード・エベレット・"テディ"・メイヤーEdward Everett "Teddy" Mayer, 1935年9月8日 - 2009年1月30日)はアメリカペンシルベニア州スクラントン出身の企業家、モータースポーツ・ディレクター。
F1マクラーレンチームの代表として成功の基礎を築き、インディカーペンスキー・レーシングの活動にも貢献した。
==略歴==

=== マクラーレン時代 ===
メイヤーはエール大学コーネル大学ロー・スクールで学びながら、弟のレーシングドライバー、ティミー・メイヤー (Timmy Mayer) のマネージャーとしてモータースポーツの世界に入った。ふたりはピーター・レブソンと共にRev-Em Racingを結成。ティミーはFJチャンピオンとなり、1962年のF1アメリカGPクーパーからスポット参戦した。
1963年、彼らはヨーロッパに渡り、クーパーのワークスドライバー、ブルース・マクラーレンが創設したプライベートチーム「ブルース・マクラーレン・モーターレーシング」に参加した。1964年初頭、チームは新設されたタスマンシリーズに参戦したが、2月の最終戦でティムは事故死してしまった。弟の死後もメイヤーはチームに残り、ブルースの右腕として運営に携わった。
チームは1966年よりレーシングカー・コンストラクター「マクラーレン」として活動開始し、F1とCan-Amに参戦。Can-AMでは1968年より黄金期を築き上げ、F1でも1968年に初勝利を獲得した。しかし、チームオーナーのブルースは1970年6月にグッドウッド・サーキットでのテスト中に事故死してしまった。マクラーレンは存続の危機に立たされたが、メイヤーが代表の座を引き継いでチームを牽引した。
1973年、ゴードン・コパック作のマクラーレン・M23がデビューし、マクラーレンはF1でも成功期を迎える。にはドライバーズ(エマーソン・フィッティパルディ)とコンストラクターズのダブルタイトルを初制覇し、にはジェームス・ハントがチャンピオンを獲得した。また、インディ500でもジョニー・ラザフォードが1974年と1976年に優勝した。
しかし、チームはグラウンド・エフェクト・カーの開発に乗り遅れ、1970年代末は低迷期に陥る。にはジル・ヴィルヌーヴをテスト起用したが、メイヤーは正式契約を結ばず、ヴィルヌーヴはフェラーリに加入した。また、には大型新人のアラン・プロストを起用したが、1シーズン限りでチームを離脱してしまった。
1980年末、メインスポンサーであるフィリップモリスの意向により、ロン・デニス率いる「プロジェクト4」がチームに合流した。メイヤーはデニスとともに共同代表を務めたが、シーズン後に保有するチーム株式を手放し、創設以来関わってきたマクラーレンから去ることになった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テディ・メイヤー」の詳細全文を読む




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