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ルイーズ・マーガレット・オブ・プロシア : ミニ英和和英辞書
ルイーズ・マーガレット・オブ・プロシア[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルイーズ・マーガレット・オブ・プロシア ( リダイレクト:ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン ) : ウィキペディア日本語版
ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン[ちょうおん]

ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン(, 1860年7月25日 - 1917年7月14日)は、プロイセン王国の王族。プロイセン王子フリードリヒ・カールの四女で、イギリス王子・コノート公アーサーの妃となった。全名はドイツ語ルイーゼ・マルガレーテ・アレクサンドラ・ヴィクトリア・アグネス()、英語ではルイーズ・マーガレット・アレグザンドラ・ヴィクトリア・アグネス()。
1860年7月25日、フリードリヒ・カールとその妃でアンハルト=デッサウレオポルト4世の娘であるマリア・アンナの間に第4子としてポツダム近郊の大理石宮殿で生まれた。父はプロイセン王子カールとその妃マリーの間に生まれた長男で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の甥にあたる。フリードリヒ・カールは普仏戦争に従軍した軍人であった。
1878年ポツダムでコノート公アーサーと出会い、婚約が成立する。姑のヴィクトリア女王はルイーゼ・マルガレーテの両親が不仲であることを心配した〔自身の夫アルバート公の両親は離婚しており、そのことがアルバート公のトラウマとなっていたため。〕が、積極的に反対する理由がないため、この結婚を認めた。
1879年3月13日ウィンザー城の聖ジョージ礼拝堂で結婚した。結婚後20年間は、夫の赴任先について各地を転々とし、アーサーがカナダ総督を務めた間も同行していた。夫との間に1男2女をもうけた。
* マーガレット (1882年 - 1920年) - スウェーデン王子グスタフ・アドルフ(のちの国王グスタフ6世アドルフ)妃。
* アーサー(1883年 - 1938年) - ファイフ女公アレクサンドラ王女と結婚。公位継承前に死去。 
* パトリシア(1886年 - 1974年) - 父の部下で軍人のアレグザンダー・ラムゼイと結婚。
1917年、2年にかけて大流行したインフルエンザにルイーズも感染し、気管支炎を併発して、クラレンス・ハウスで急死した。ウィンザー・フラッグモアにあるイギリス王室の墓所に埋葬された。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルイーゼ・マルガレーテ・フォン・プロイセン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Princess Louise Margaret of Prussia 」があります。




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