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アーサー・オブ・コノート : ミニ英和和英辞書
アーサー・オブ・コノート[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アーサー・オブ・コノート : ウィキペディア日本語版
アーサー・オブ・コノート[ちょうおん]

アーサー・オブ・コノート・アンド・ストラサーン(Prince Arthur of Connaught and Strathearn, 1883年1月13日 - 1938年9月12日)は、イギリス王族軍人ヴィクトリア女王の孫息子の一人。南アフリカ連邦総督(在任1920年 - 1923年)を務めた。全名はアーサー・フレデリック・パトリック・アルバート(Arthur Frederick Patrick Albert)。
== 生涯 ==
ヴィクトリア女王の三男であるコノート公およびストラサーン公アーサーとその妻であるプロイセン王女ルイーゼ・マルガレーテの間の第2子、長男としてウィンザー城に生まれた。姉にスウェーデン王グスタフ6世アドルフの最初の妃マーガレットがいる。アーサーはイギリス王家の王子として初めてイートン校に学び、サンドハースト王立陸軍士官学校を経てイギリス第7驃騎兵連隊に所属した。第2次ボーア戦争に同連隊とともに従軍し、クルーガースドープに数カ月駐屯した。1907年、アーサーは第2竜騎兵連隊(現在のロイヤル・スコッツ・グレイズ)所属の大尉に昇進し、1920年には同連隊の名誉連隊長に就任。
第一次世界大戦中、フランスベルギーに上陸したイギリス海外派遣軍の将軍たち、ジョン・フレンチダグラス・ヘイグ副官を務めた。1919年には中佐、1922年には大佐と順調に出世し、1922年10月には名誉的な陸軍少将のポストを得て従弟の国王ジョージ5世の副官となった。第1次大戦当時、ジョージ5世の息子たちはいずれも公務をこなすには幼すぎたため、アーサー王子が国内外での様々な式典にイギリス王室代表として出席した。
1913年10月15日、アーサーはセント・ジェームズ宮殿チャペル・ロイヤルにおいて、従姪にあたる第2代ファイフ公爵(夫人)のアレグザンドラ王女と結婚した。アレグザンドラはアーサーの従姉に当たるルイーズ王女の娘で、イギリス王女の身分を持ち、父からファイフ公爵をも襲爵していた。夫妻の間には1914年に一子アラステアが生まれた。アラステアは1917年のイギリス王族の称号に関する新規定に従って王族の身分を失ったが、1942年に祖父からコノート=ストラサーン公爵を襲爵している。
1918年、日本の戦艦「霧島」に外国の賓客として招待され、同艦に乗って日本からカナダに渡航している。1920年にバクストン卿の後任として南アフリカ連邦総督となり、1923年にはアスローン伯爵が同職を引き継いだ。イギリスに帰国した後、多くの慈善団体に関わった。
1938年に胃がんで亡くなったため、存命中だった父の爵位を受け継ぐことはなかった。アーサーの一人息子でマクダフ伯爵の儀礼称号で呼ばれていたアラステアが、1942年に祖父からコノート公爵を襲爵した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アーサー・オブ・コノート」の詳細全文を読む




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