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ルイ・ヴィエルヌ : ミニ英和和英辞書
ルイ・ヴィエルヌ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ルイ・ヴィエルヌ : ウィキペディア日本語版
ルイ・ヴィエルヌ

ルイ・ヴィクトル・ジュール・ヴィエルヌ''Louis Victor Jules Vierne'', 1870年10月8日 ポワティエ1937年6月2日 パリ)はフランスの著名なオルガニスト作曲家・音楽教師。'Louis Victor Jules Vierne'', 1870年10月8日 ポワティエ1937年6月2日 パリ)はフランスの著名なオルガニスト作曲家・音楽教師。', 1870年10月8日 ポワティエ1937年6月2日 パリ)はフランスの著名なオルガニスト作曲家・音楽教師。
== 生涯 ==
父アンリはボナパルト主義的な傾向のあるジャーナリストだった。弟ルネ(1878年生)はシャルル=マリー・ヴィドール門下の教会オルガニストで、第1次世界大戦に従軍中に戦死した。
先天性白内障のため生まれつき盲目に近かったが、7歳になるまでは、日常生活で、遠くまで自分一人で向かったり、大きな活字を読んだりするのに支障はなかった。早熟な楽才を発揮していて、2歳の時に初めてピアノを聴き、シューベルトの子守唄を演奏してもらったところ、聴いたばかりの子守唄を、即座にそらで弾いてみせた。ヴィエルヌ家は1873年よりパリに引っ越している。パリでルイ少年は叔父シャルル・コラン(1831~1881、パリ音楽院教授のオーボエ奏者、作曲家。オルガンも堪能で教会での奏楽も行なっている)にも楽才を見出され、ピアノを学ぶように励まされた。6歳で眼の手術を受けたが、普通の状態で勉強を続けるに充分なほどには視力が恢復しなかった。
1880年よりパリでアンリ・スペクトにピアノ教育を受ける。同年パリの聖クロティルド教会で、セザール・フランクオルガン演奏を初めて聞いた。当時の生活を後年ヴィエルヌは回想録の中で「捧げもの」と呼んだ。1881年に国立パリ盲学校に進学し、ピアノを引き続きアンリ・スペクトに、ヴァイオリンをアンリ・アダンに師事。1887年からルイ・ルベルにオルガンの指導を受けたが、2年後にルベルが歿するとアドルフ・マルティに師事した。1889年セザール・フランクフーガを師事した。
フランクは、早くも1884年に盲学校のピアノの試験でヴィエルヌ少年の才能を見抜き、パリ音楽院で学習するように少年を激励したので、やがてヴィエルヌは音楽院の聴講生としてフランクのオルガン科を履修した。正式に入学したのは1890年からだが、間もなくフランクが急死したため、1894年に修了するまでシャルル=マリー・ヴィドールを指導教授に仰いだ。ヴィドールは、1892年にヴィエルヌをパリのサン・シュルピス教会の演奏家代理に指名しており、1894年にヴィエルヌがオルガン演奏と即興演奏で首席に選ばれると、オルガン科の講義の当座の助手にヴィエルヌを迎えた。1899年に最初のオルガン交響曲(作品14)を作曲。1900年に、パリ・ノートルダム寺院パイプオルガン奏者の指名をめぐって選考会が開かれると、他の50名の志願者を下してその地位を手に入れ、審査員から祝福を受けた。そして歿年まで首席オルガニストの職務を続けた。
1899年に、オペラ・コミック座の声楽家の娘だったアルレット・タスカン(Arlette Taskin)と結婚して、3児を儲けるも1909年には離婚している。原因はアルレットの浮気であった。当時有名だったオルガン職人のシャルル・ミュタンが彼女を寝盗ったのだった(皮肉なことに、ドビュッシーも激賞したヴィエルヌの《オルガン交響曲 第2番》は、ミュタンに献呈されている)。ヴィエルヌにとって私生活でのさらに大きな不幸は、二人の息子に先立たれたことだった。1913年にアンドレが10歳で結核で命を落としており、1917年にはジャックが戦死した。さらに1918年には弟ルネも戦死している。
1911年ギルマンが歿すると、ヴィエルヌはパリ音楽院オルガン科の教員に戻ろうとしたが、反対に遭い、さらにヴィドールと院長ガブリエル・フォーレとの対立に捲き込まれた。それで1912年に、友人ヴァンサン・ダンディが設立した音楽学校、スコラ・カントルムのオルガン科を引き受けた。
フランスのオルガニストにとって最も名誉ある地位の一つに就いてはいたが、ヴィエルヌの任期を通じて、ノートルダム寺院パイプオルガンはあちこち修復が必要な状態だった。オルガン修復にかかる費用を捻出するため、ついにヴィエルヌは演奏旅行を決行し、寄金を募ることにした。1916年に度々スイスを訪れて、緑内障の治療を受けていたが、1920年にパリに戻ると、まずヨーロッパ全土で演奏旅行を行なった。1927年にはアメリカ合衆国を訪れている。体力は奪われたものの、アメリカ楽旅は大成功に終わり、1932年にはヴィドールとともに、修復を終えて新しくなったノートルダム寺院のオルガンのお披露目を行なった。
ヴィエルヌは、心身ともに非常につらい一生を送っており、容赦ない精神的な試練が時おり作品にも反映されている。当初は全盲ではなかったとはいえ、今日では「法律上の盲人」に認定される状態ではあった。経歴の初期においては、特大の五線譜に(マルセル・デュプレ曰く)「大型の鉛筆」を使って作曲し、後年に限られた視力が衰えるにつれ、創作のほとんどを点字に頼った。1906年にはパリで交通事故に遭って脚を複雑骨折し、あわや切断手術を免れたものの、ヴィエルヌの生涯で最も忙しかった時期に、健康と足鍵盤の技巧とを完全に取り戻すのにまるまる1年を費やしている。1907年にはチフスにかかって死にかけており、数年後には緑内障にかかって最終的には完全に失明した。それにもかかわらずヴィエルヌは、欧米で演奏旅行を行なっただけでなく、華麗な即興演奏の大家として自らも名を揚げたのである。
1937年6月2日に67歳で亡くなった。ノートルダム寺院で通算1750回目の演奏会の最中に演奏台で斃れたのだった。目撃証言はさまざまだが、死因は脳卒中心筋梗塞であったらしい。当日の演奏曲目には、奇しくも自作の《逝ける子のための墓碑(''Stèle pour un enfant défunt'')》作品58-3が含まれていた。臨終の席では、すでに演奏会の主部を終え、結びとして予定されていた2度の即興演奏を披露している最中だった。演奏会の主部については聴衆が、ヴィエルヌが「かつてないほど」全力を注いでいたと伝えている。結びでは、まず与えられた主題を点字で読み、それから即興演奏に使うべく音栓を選んだ(このとき音栓助手を務めていたのが、愛弟子のモーリス・デュリュフレだった)。突然ピッチを上げ、足が足鍵盤の低いホ音をとらえた途端に椅子から崩れ落ちた。教会中に、たった一つの音がこだまする中、ヴィエルヌは意識を失ったのである。ノートルダム寺院のパイプオルガンの演奏台で最期を迎えたいという、長年思い描いてきた夢をヴィエルヌは叶えたのであった。
門下から数々の優れたオルガニストを輩出しており、たとえばアルフォンス・シュミットやオギュスタン・バリエリリ・ブーランジェアンドレ・フルリーモーリス・デュリュフレ、アドリアン・ルジエらがいる。数々の難局に見舞われながらも、学生からは、親切で忍耐強く、励ましてくれる先生として一様に慕われた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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