翻訳と辞書
Words near each other
・ リチャード・ブラックウェル
・ リチャード・ブラッド
・ リチャード・ブラッドリー
・ リチャード・ブラッドレー
・ リチャード・ブランソン
・ リチャード・ブラント
・ リチャード・ブラントン
・ リチャード・ブランド
・ リチャード・ブランドン
・ リチャード・ブリジェンス
リチャード・ブリンズリー・シェリダン
・ リチャード・ブリヴァード・ラッセル
・ リチャード・ブル
・ リチャード・ブルックス
・ リチャード・ブルース・チェイニー
・ リチャード・ブレイアー
・ リチャード・ブレイク
・ リチャード・ブレイド
・ リチャード・ブロディ
・ リチャード・ブローティガン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

リチャード・ブリンズリー・シェリダン : ミニ英和和英辞書
リチャード・ブリンズリー・シェリダン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

リチャード・ブリンズリー・シェリダン : ウィキペディア日本語版
リチャード・ブリンズリー・シェリダン[ちょうおん]

リチャード・ブリンズリー・シェリダンRichard Brinsley Sheridan, 1751年10月30日 - 1816年7月7日)は、アイルランド出身の劇作家、イギリスのホイッグ党の政治家。
== 前半生 ==
R・B・シェリダンが生まれたのはダブリンのドーセット通り12番地で、この通りは18世紀後半、ファッショナブルな通りであった(130年後、やはり劇作家のショーン・オケイシーもこの通りで生まれた)。洗礼を受けたのは11月4日。父トーマス・シェリダンはその当時、ダブリンの王立劇場で俳優兼監督をしていた。母フランセス・シェリダンは作家(最も有名な小説に『The Memoirs of Sidney Biddulph』がある)。その母は、彼が15歳の時に死んだ。長兄トーマスが死んだのは1750年で、この年、次兄のチャールズ・フランシスが生まれている(没年は1806年)。
シェリダンはロンドンハーロー校で教育を受け、法律を学んでいたが、作曲家トマス・リンリーの娘エリザベス・リンリー(1754年 - 1792年)とロマンティックな駆け落ちをし、1773年4月13日、2人はメリルボーン教会で正式に結婚した。エリザベスとは後に死別するが、息子トーマスを授かった(1775年 - 1817年)。
シェリダンの2度目の結婚相手はエスター・ジェーン・オーグルで、彼女との間に息子チャールズ・ブリンズリー(1843年没)をもうけた。
シェリダンはロンドンに戻り、劇作をはじめた。彼の最初の劇は『恋がたき』で、1775年、コヴェント・ガーデンで上演されたが、初日は失敗だった。シェリダンは2度目の興業で、滑稽なアイルランド人役により才能のある俳優をキャスティングした。それが大当たりで、たちまちシェリダンは若き劇作家の評判を確立した。この作品はイギリス文学のスタンダードとなった。
名声と富を得て、シェリダンはドルリー・レーン劇場の株を買った。彼の代表作『悪口学校』(1777年)は英語で書かれたComedy of manners(風俗喜劇、風習喜劇)の傑作の1つと見なされている。続いて書かれた『The Critic』(1779年)は、風刺的な王政復古時代の劇『The Rehearsal』の焼き直しで、1946年オールド・ヴィック・シアターにて、ローレンス・オリヴィエ主演で注目すべき再演が行われた(1晩のみ『オイディプス』も同時上演)。
シェリダンは社交界の花形で作家のキャロライン・ノートンの祖父で、第3代カナダ総督ならびに第8代インド総督フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッドの曾祖父でもある。有名な怪奇小説作家シェリダン・レ・ファニュは、又甥にあたる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「リチャード・ブリンズリー・シェリダン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.