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ヤングおー!おー! : ミニ英和和英辞書
ヤングおー!おー![ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヤングおー!おー! : ウィキペディア日本語版
ヤングおー!おー![ちょうおん]

ヤングおー!おー!』 (YOUNG OH! OH!) は、1969年から1982年まで全国ネットで放送された毎日放送(MBS)製作の公開バラエティ番組である。「ヤングオーオー」、「ヤングOH!OH!」のタイトル表記もあり。
==歴史・概要==
1969年7月3日に番組スタート。桂三枝(現:六代桂文枝)とMBSアナウンサー(当時)の斎藤努がパーソナリティを務めていたラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビバージョンである。初代司会は、落語家笑福亭仁鶴と三枝が担当。進行役は斎藤が務めた。
番組の収録は初期の大阪市北区の「うめだ花月」を皮切りに、同区・中之島の「SABホール」(後のリサイタルホール2007年閉鎖)での公開収録を長年にわたって行ってきた。その後、末期に吹田市のMBS千里丘放送センター内にあった公開ホール「ミリカホール」からの生放送で行われていた。また、月に1回の割合で関東地方での収録があり、その他ネット局の制作協力で日本各地の地方公開録画もあった。当番組もその模様を茶の間ではなくホール会場で直接見たい場合は、前もってネット局宛に観覧したい旨のハガキを送らねばならなかった。そうすれば厳正なる抽選の上、スタッフから視聴者宛に当選通知票(いわゆる入場整理券)を送ってもらえた。ただし、ハガキ1枚につき3人一組であることが条件であった。
番組の内容は、公開放送形式で、吉本興業の若手芸人と一般視聴者(観客)によるゲーム企画や、吉本の芸人によるコント、漫才の他、ゲストのアイドルの歌やトークもあった。中には東京キー局制作の番組でも出演しない大物のアーティストが突如登場することもあった。
吉本若手芸人の元祖登龍門的番組で、昭和30年代から40年代までは松竹芸能独走状態であった上方演芸界の勢力図を現在のような吉本中心へと至らしめる、その骨格を築き上げた。全国区の人気者へと上り詰めた仁鶴・三枝は、3か月遅れで番組レギュラー入りし大ヒット曲「嘆きのボイン」で猛追した月亭可朝を加えて俗に“上方落語若手三羽烏”。また、やはり番組レギュラーだった横山やすし・西川きよしと共に“吉本御三家”と並び称された。ほかにも桂きん枝林家小染オール阪神・巨人明石家さんま桂文珍月亭八方島田紳助らは、この番組で人気に火が付き、さらに「出世作」でもあり、全国進出のきっかけを作った。さんまが、当時阪神タイガース投手だった小林繁ものまねを披露したのも、この番組が最初だった。番組初期は、文珍、八方、きん枝、小染の吉本の若手落語家4人で「ザ・パンダ」を結成、後にさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名、紳助・竜介、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちが加入し「チンチラチン」を結成。このときに得た、ユニット作りによる若手スター売り出しを伴う番組制作は、後に、ダウンタウン司会で心斎橋筋2丁目劇場より生中継された『4時ですよーだ』(毎日放送、1987年 - 1989年)、さらにはナインティナインを中心とした「吉本印天然素材」などへと発展。吉本独特のスター工法がお家芸として定着していくことになる。
1978年から1981年の毎年5月から7月頃には、「ミス・アイドルコンテスト」が開催された。毎週5人の出場者が登場しチャンピオンを決め、さらに、グランドチャンピオン大会でグランドチャンピオンに選ばれると、賞金$1000と日本航空で行く海外旅行がプレゼントされた。しかし、番組が事前収録のため、優勝者が番組放送前に『TVガイド』に載ってしまうという出来事もあった。1980年の「ミス・アイドルコンテスト」優勝者の山本博美(現:京本政樹夫人)は、のちにタレントとしてデビューし、当番組のスポンサーである日清食品のカップラーメンのCMにも出演した。
1980年9月末の放送をもって、初代司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へと道を譲ることを理由として降板。同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たり、無名時代から何かと共通の仕事が多かった縁から島田紳助松本竜介を起用。この司会者交代を機に、さんまよりも芸歴の長いレギュラー陣の落語家たち(文珍、八方、小染ほか)も番組から徐々にフェードアウトする一方、当時のMANZAIブームの時流に対応してザ・ぼんち西川のりお・上方よしおなど、三枝司会時代に番組内ユニット「チンチラチン」を構成していながらも、「ザ・パンダ」の前に影が薄かった若手〜中堅の漫才コンビが主要キャストとして番組をリードする存在として頭角を現し始め、視聴者の間でも番組内容の変質が強く意識されるようになっていった。
最終回は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストで制作スタッフのクレジットタイトル(番組終了当時)のロールと共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤努らの姿(VTRが現存していないため白黒写真を使用した)を背景にして別れのメッセージとした。
2012年7月29日に、NHK BSプレミアムで放送された、『桂三枝のすべて 〜六代桂文枝襲名〜』の中で、当時の出演者・三枝や「ザ・パンダ」のメンバー(小染は故人のため弟弟子の染丸)が出演し、当時行われていた大喜利「あたかも読書」が再現された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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