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メル・ハーダー : ミニ英和和英辞書
メル・ハーダー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

メル・ハーダー : ウィキペディア日本語版
メル・ハーダー[ちょうおん]

メルビン・リロイ・ハーダーMelvin Leroy Harder, 1909年10月15日 - 2002年10月20日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手プロ野球指導者。MLBで活躍した名投手であり、名投手コーチとしても知られる。右投右打。
選手としては、1928年から1947年までは選手として、クリーブランド・インディアンズ一筋で活躍し、1949年から1963年までは、最も高い評価を受けるピッチングコーチの一人として、インディアンズで計36シーズンを過ごした。当時ハーダーの樹立したチーム記録のうち、勝利数(223)、先発登板数(433)、投球回(3426 - 1/3)はボブ・フェラーに破られたが、現在でも582試合登板のチーム記録を保持している。引退時には、アメリカン・リーグで通算勝利数9位、通算登板試合数8位、通算先発登板数10位であった。また、守備が得意なことでも知られており、アメリカン・リーグの刺殺数1位を4度記録した。
ニックネームは「Chief」。
== 来歴 ==
ハーダーは、ネブラスカ州ビーマーで生まれ、ネブラスカ州北オマハ工業高校を卒業後、1928年にインディアンズに入団し、救援投手としてデビューした。ハーダーの投球スタイルは、素晴らしいカーブと速球に加え優れたコントロールに支えられていた。1930年に先発ローテーションに加わると、1932年までの3シーズンで39勝37敗を記録した。この間1932年7月31日には ミュニシパル・スタジアムのこけら落しの試合に先発した。1933年には、防御率2.95を記録し、チームメイトのモンテ・ピアソンの2.33に次いでリーグ2位となった。なお、現行ルール(規定投球回=チーム試合数)では、ピアソンは135回しか投げておらず、ハーダーが1位となっている。1934年には、6完封を含む20勝を挙げ、防御率2.61はレフティ・ゴメスに次いで2位であった。1935年は、勝ち星と投球回でウェス・フェレルに次いで2位、防御率3.29はリーグ5位だった。肘と肩を傷めた後も、1936年から1939年までのシーズンでは毎年15勝以上の勝ち星をあげた。また、1932年、1933年、1935年、1938年の4回アメリカンリーグ刺殺数1位になっている。
ハーダーは、1930年代の オールスターゲームで最も成功した選手の一人だった。1934年から1937年の4試合すべてに出場し、13イニング連続自責点なしを記録した。1934年の試合では、8対6とリードながら、ノーアウトでランナーが2人残った状態でレッド・ラフィングを救援し、ダブルスチールの間に1点こそとられたものの、自身が投げた5回をヒット1本に抑え、アメリカンリーグの9対7での勝利に貢献した。1935年は、3回を0点に抑えセーブを記録し、チームも4対1で勝利した。また、1937年にも3回を完封し、8対3での勝利に貢献した。なお、1936年は、地元クリーブランドでの開催で、ハーダーは2回を投げたがチームは4対3で敗れた。
1940年のハーダーは12勝11敗に終わったが、インディアンズは、デトロイト・タイガースに1ゲーム差でシーズンを終えた。このシーズンがハーダーのキャリアのうちインディアンズが首位から10ゲーム差以内で終えた唯一のシーズンとなった。ハーダーは1944年に200勝を達成後、数年間勝率5割前後の成績を続け、1947年に引退した。通算の防御率は3.80、奪三振1160であり、通算223勝186敗は当時のチーム記録であった。皮肉なことに、インディアンズがワールドシリーズを勝ったのは、ハーダーが引退した後、投手コーチとしてチームに復帰する前年の1948年であった。
1949年から1950年代にかけて、インディアンズの「ビッグ4」として知られたフェラー、ボブ・レモンアーリー・ウィンマイク・ガルシアを指導した。1940年代半ばには、レモンを内野手から主力投手にコンバートすることに成功し、ウィンにカーブとチェンジアップを教えた。1953年には、レモンがハーダーの記録に並ぶ4度目の刺殺数1位となり、翌1954年にはレモンがハーダーの記録を破る5度目の刺殺数1位を獲得しインディアンズは2度めのリーグ制覇を成し遂げたが、ワールドシリーズでは、 ニューヨーク・ジャイアンツに敗れた。1955年には、ハーダーの指導によりカーブの切れ味を増したハーブ・スコアがアメリカンリーグの新人王に選ばれた。ハーダーは1961年の最終戦と1962年の最後の2戦で臨時監督を務めたが、これら3試合では全て勝利している。ハーダーが1963年にチームを離れるまでに、サム・マクダウェルトミー・ジョンルイス・ティアントなどの有望な若手投手が彼の指導を受けたものと思われる。インディアンズ退団後、ニューヨーク・メッツ1964年)、シカゴ・カブス1965年)、シンシナティ・レッズ1966年から1968年)、カンザスシティ・ロイヤルズ1969年)でコーチを歴任した。
1990年に、インディアンズはハーダーの現役時の背番号18を永久欠番とした(コーチとしては43と2を付けていた)。また、2001年にインディアンズのトップ100選手に選ばれた。
2002年オハイオ州チャードンオハイオ州チャードンで93歳で死去した。2002年当時、5人しか残っていなかった1920年代に活躍した選手の一人だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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