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マルティン・ベハイム : ウィキペディア日本語版
マルティン・ベハイム

マルティン・ベハイム(Martin (von) Behaim、1459年10月6日 - 1507年7月29日)は、ポルトガル王に仕えたドイツ人天地学者天文学者地理学者、探検家である。''Martinho da Boémia''、''Martin Bohemus''、''Martin Behaim von Schwarzbach'' とも呼ばれ、ラテン語では ''Martinus de Boemia'' と呼ばれた。
== 生涯 ==

ニュルンベルクで商人の7人兄弟の長男として生まれた。ある文献では生年は1436年ごろとされているが、 によればボヘミアで遅くとも1459年までに生まれたとされている。父はヴェネツィアでの商売を含む多くの商売をしていて、晩年には上院議員にも選ばれたが(1461年)、1474年に亡くなった(母は1487年7月8日死去)。ベハイムも商人となって1477年にフランドルに向けて旅立ち、メヘレンに落ち着き、衣類商 Jorius van Dorpp の商売を手伝うようになった。同年2人はフランクフルトの市を訪れ、van Dorpp はアントウェルペンで仕入れた衣類をドイツの商人に売った。母はベハイムにメヘレンに戻ってベハイム家の友人である Bartels von Eyb のところで働くよう知らせてきた。しかし、ベハイムは叔父のレオンハルト・ベハイムに、戻らずに商売の腕を磨きたい旨の手紙を送っている(1478年9月18日)。結局、別の商人 Fritz Heberlein(ニュルンベルク出身だがアントウェルペンで商売をしていた)のところで働くようになり、そこで算術と商売を学んだ。1480年、ポルトガルフランドル間の貿易に惹かれたベハイムはリスボンへと向かい、商売と当時急激に盛り上がりつつあった海外探検に没頭するようになる。そこで航海術、宇宙誌、探検といった知識に惹かれ、ポルトガル王ジョアン2世の宮廷でおそらくクリストファー・コロンブスフェルディナンド・マゼランといった有名人にも出会ったと見られる。
1476年に亡くなった天文学者レギオモンタヌスの弟子(真偽のほどは不明)として、ベハイムは宇宙誌や地図製作とも繋がりがあり、その結果ジョアン2世からアブラハム・サクート率いる航海術に関する協議会に招待された(1483年)。ヤコブの杖をポルトガルにもたらしたのはベハイムと言われている(フランスのユダヤ人ゲルソニデスが14世紀に発明したとされている)。ただしこれは疑わしく、多くの航法計器はスカンジナビア人、ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、中国人が(それぞれ微妙な違いはあるが)数世紀も前から使っていた。ベハイムは精度的に問題のある木の代わりに真鍮を使い、アストロラーベを改良した。また、当時イベリア半島で使われていた航行計算表の改良に寄与したということは大いにありうると見られている。
ベハイムはディオゴ・カンと共に自身2回目の探検航海(1485-86年)を行い、西アフリカの海岸沿いに南下して現在のアンゴラあたりまで到達し、その後アゾレス諸島を経由して帰還した。ベハイムが報告した通りの位置まで本当に到達したのかどうかは不明である。ギニアの海岸あたり、大きく見積もってもベニン湾までではないかという説もある。あるいは、それらの中間点も別の船が先に到達したという説もある。いずれにしてもベハイムの探検はこれが最後であり、リスボンに戻るとジョアン2世に爵位を授かり、様々な役目を与えられるようになった。
1486年に結婚すると、舅の Josse van Huerter が司令官とフランドル人のリーダーを務めていたアゾレス諸島のファイアル島に住むようになった。1490年、家業を切り盛りするためにニュルンベルクに戻り、1491年から1493年までそこに留まり、有名な世界初の地球儀 (Erdapfel) もそこで製作した。1493年にはフランドルとリスボンを経由してファイアル島に戻り、1506年までそこに留まった。1507年7月29日、商用でリスボンを訪れていた最中に亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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