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マット・バスビー : ミニ英和和英辞書
マット・バスビー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マット・バスビー : ウィキペディア日本語版
マット・バスビー[ちょうおん]

サー・アレクサンダー・マシュー・バスビー CBE (Sir Alexander Matthew Busby, 1909年5月26日 - 1994年1月20日)、通称 マット・バスビー (Matt Busby) は、イギリススコットランド出身の元サッカー選手、元指導者
イングランドマンチェスター・ユナイテッドFCの監督を長年務めたことで知られる。
== 経歴 ==
1909年スコットランド中部・ノース・ラナークシャーのオービストン (Orbiston) という鉱山の村に生まれる。幼い頃に父とその兄弟たちを第一次世界大戦で失った。
;選手時代
1928年イングランドのサッカークラブ、マンチェスター・シティFCで選手キャリアを始める。1934年にはFAカップで優勝を経験。1936年からはリヴァプールFCにも在籍し、のちにリヴァプールの監督として黄金期を築くボブ・ペイズリー (Bob Paisley) らと共にプレーした。選手時代のバスビーは当初フォワード(インサイド)を務めていたが、キャリア途中でハーフバックに転向。足技に優れ、特にパスの能力に長けた選手だった。スコットランド代表にも選出され、公式記録としては、1933年10月5日ブリティッシュ・ホーム・チャンピオンシップ、対ウェールズ戦が代表初キャップとなっている。
1939年第二次世界大戦勃発に伴い、バスビーはプロ選手生活の中断を余儀なくされた。その後リヴァプールの他の選手・スタッフたちと同様に、バスビーもイギリス陸軍・王立リヴァプール連隊に従軍した。また、戦時中も非公式ながらプレーを続け、チェルシーFCミドルスブラFCレディングFCなどで試合に参加した記録が残っている。
;指導者の道へ
戦争が終わった頃、36歳になっていたバスビーは、リヴァプール側から打診されたコーチングスタッフ職の話を断り、1946年10月よりマンチェスター・ユナイテッドFCでの監督生活を始める。就任直後のシーズンから古巣リヴァプールと肉薄する闘いぶりで、いきなりリーグ2位の好成績を挙げた。その後のシーズンも毎年優勝争いに加わり、1952年にはついに自身初のリーグ優勝を成し遂げた。
終戦直後とあってクラブの台所事情は厳しかったが、バスビーは若手選手のスカウト、育成に重きを置くことにより、長期的視野での戦力強化に取り掛かった。この頃バスビーが見出した選手にダンカン・エドワーズボビー・チャールトンらがいる。この若いチームは「バスビー・ベイブス」(Busby Babes, バスビーの子どもたち)と呼ばれ、1956年からは国内リーグ2連覇を達成する快進撃を繰り広げた。
;悲劇
クラブ経営も軌道に乗ってきていた1958年2月6日、突然の悲劇がバスビー・ベイブスを襲った。UEFAチャンピオンズカップを戦うためユーゴスラビアを訪れたユナイテッドの一行は、強行日程のため試合後すぐに飛行機でマンチェスターへの帰路に就いた。給油のため西ドイツミュンヘン・リーム空港に立ち寄った際、当時ヨーロッパを襲っていた大寒波の影響で飛行機が離陸に失敗、滑走路外の民家に激突し大破した。この事故で主将ダンカン・エドワーズを含むユナイテッドの選手8名とクラブスタッフ3名が死亡。またバスビー自身も重傷を負い、一時は生命も危ぶまれた。エドワーズらイングランド代表選手を抱え、国内リーグの優勝候補筆頭としてチームが円熟味を増していた矢先の出来事だっただけに、この事故はマンチェスターのみならずイギリス全土に大きな悲しみを与えた。この年、バスビーに大英帝国勲章 (CBE) が贈られている。
(事故についてはミュンヘンの悲劇の項も参照)
;悲願達成
一時はフットボールへの情熱を失ったバスビーだったが、夫人らの説得もあり翌シーズンから現場に復帰。同じく事故のショックから立ち直ったボビー・チャールトンをチームの柱に据え、クラブの建て直しに着手した。
1960年代に入ると、ジョージ・ベストデニス・ローといった才能が次々に頭角を現し、1963年FAカップ優勝、1965年1967年には国内リーグも制した。そして迎えた1968年5月29日ロンドンウェンブリー・スタジアムで行われたチャンピオンズカップ決勝戦 (1968 European Cup Final) において、ベンフィカポルトガル)を 4 - 1 で破り、10年前道半ばで潰えた悲願を達成した。ユナイテッドが挙げた4点の中には、主将ボビー・チャールトンの2得点が含まれている。同年、チャンピオンズカップ優勝の功績を称えられ、バスビーにナイトの称号が与えられた。
;勇退、その後
1969年、バスビーはユナイテッドの監督職を後進に一旦譲るが、クラブが成績不振に陥ったことにより、1970年から再度1シーズン指揮を執った。1971年に勇退、その後も取締役としてクラブに残り、行く末を見守り続けた。監督としての通算成績は、計24シーズンで1,159試合、581勝271分け307敗。勝率は5割を超える。
1994年1月20日のため死去。84歳だった。
1999年スペインバルセロナカンプ・ノウで行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦にて、マンチェスター・ユナイテッドはバイエルン・ミュンヘンを劇的な逆転勝利で下し、1968年以来クラブ史上2度目となる栄冠を勝ち取った。
決勝戦が行われた5月26日という日付は、バスビーの90回目の誕生日であった。この奇妙な一致について、マンチェスター・ユナイテッド監督であり、またバスビーと同じくサッカースコットランド代表監督を務めたこともあるアレックス・ファーガソンは「きっと彼が味方してくれたのだろう」とコメントした。
マンチェスター・ユナイテッドのホームスタジアム、オールド・トラフォードの現在の住所は "Sir Matt Busby Way" と呼ばれている。スタジアム正面玄関には左手にボールを抱えたバスビーの像が鎮座し、スタジアムにやってくる人々を出迎えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マット・バスビー」の詳細全文を読む




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