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マグナート陰謀 : ミニ英和和英辞書
マグナート陰謀[まぐなーといんぼう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [かげ]
 【名詞】 1. shade, shadow 2. other side 3. negative
陰謀 : [いんぼう]
 【名詞】 1. plot intrigue 2. conspiracy 
: [はかりごと]
 【名詞】 1. plan 2. strategy

マグナート陰謀 : ウィキペディア日本語版
マグナート陰謀[まぐなーといんぼう]

ヴェシェレーニ陰謀ハンガリー語:Wesselényi-összeesküvés )、ズリンスキ=フランコパン陰謀クロアチア語:Zrinsko-frankopanska urota)またはマグナート陰謀ドイツ語:Magnatenverschwörung)は、17世紀のハンガリーで起きた陰謀事件。ハンガリーからハプスブルク帝国その他の諸外国の支配を排除しようとして計画された〔Magyar Régészeti, Művészettörténeti és Éremtani Társulat. ''Művészettörténeti értesítő.'' (Budapest: Akadémiai Kiadó. 1976), 27〕。このクーデター計画の原因となったのは、共にハンガリーの隣接地域を支配する神聖ローマ皇帝レオポルト1世オスマン帝国との間で1664年に結ばれた、さほど有名でないヴァシュヴァールの和約であった。反乱における組織力の貧弱さのため、ハプスブルク帝国政府は敵対者を容易に弾圧することが出来た。陰謀の名前はハンガリー貴族のヴェシェレーニ・フェレンツ伯爵(:hu:Wesselényi Ferenc )に、あるいはクロアチア貴族のニコラ・ズリンスキ伯爵、ペータル・ズリンスキ伯爵およびフラン・クルスト・フランコパン伯爵に因んでいる。
== 原因 ==

14世紀半ばに始まったヨーロッパにおけるオスマン帝国の拡張は、セルビアおよびビザンツ帝国との係争という形で展開され、両国はそれぞれコソヴォの戦い(1389年)とコンスタンティノープルの陥落(1453年)で致命的な敗退を喫し、オスマン帝国の前に衰亡を余儀なくされた。トルコ人たちの拡張主義政策は、16・17世紀にはハプスブルク帝国との恒常的な抗争をもたらすことになった〔Sugar, Peter F., Peter Hanak, and Frank Tibor, eds. ''A History of Hungary.'' (Bloomington: Indiana University Press, 1994), 113〕。1526年のモハーチの戦いの後、ハンガリー王国の中央部はオスマン帝国に征服された。北部地域にはハプスブルク家の支配する王領ハンガリー、南部地域はオスマン帝国の行政区、東部にはトランシルヴァニアがそれぞれ割拠し、王国はこれら3つの陣営によって分断された。恒常的に続く内戦と独立戦争の中では、ハプスブルクの支持者がオスマン帝国の支持者と戦うといったような、首尾一貫した行動を取るのは困難だった〔Kontler, Laszlo. ''A History of Hungary.'' (New York: Palgrave MacMillan. 2002), 142〕。
1656年9月までに、南東ヨーロッパにおける二つの覇権国の膠着状態は、大宰相キョプリュリュ・メフメト・パシャの補佐を受けたスルタン・メフメト4世が、オスマン軍の改革とより大規模な紛争の準備を始めたことで、再び動き出した。情勢の変化はオスマン帝国軍トランシルヴァニア領に侵攻して同地域を征服したことで、現実味を帯びてきた。トランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世は防衛戦の最中に殺された。この地域でのややあっけない勝利の後、トルコ人たちは大軍を組織し、軍隊に王領ハンガリーへと向かうよう命じた。
トランシルヴァニア国家およびハプスブルク領内へのオスマン軍の侵攻は、この地域の均衡状態を崩してしまい、レオポルト1世率いるハプスブルク軍は敵との対峙を余儀なくされた。当初、ハプスブルクとオスマンの両軍は軍を差し向けて本格的な戦争に突入することは控えていたが、1661年にレオポルト1世はライモンド・モンテクッコリ元帥率いる1万6000人の軍勢を敵地に送り込んだ。オーストリア側の先制攻撃もむなしく、オスマン軍のハンガリー侵攻を遅らせることは出来なかった〔Ingrao, Charles. ''The Habsburg Monarchy; 1618–1815.'' 2nd. ed. (Cambridge, UK: Cambridge University Press, 2000), 66〕。オスマン軍の侵入に対抗すべく、モンテクッコリは既に1662年、さらに1万5000人の軍勢を与えられてハンガリーに陣取っていた。この軍勢に加え、クロアチア人貴族ニコラ・ズリンスキに率いられた地元のハンガリー人の軍勢も防衛戦に参加した。またハンガリー人大貴族ヴェシェレーニ・フェレンツの外交交渉が成果を結び、モンテクッコリは神聖ローマ帝国諸侯の支援を得られた。
1663年の下半期から1664年の上半期にかけて、この連合軍はオスマン軍が征服した地域を取り戻したほか、オスマン側の物資供給ラインを断ち、オスマン帝国がハンガリー国内に保有するいくつかの要塞を奪取した。1664年8月1日、ハンガリーとハプスブルクの「キリスト教」連合軍は、セントゴットハールドの戦いでオスマン帝国に対し決定的な勝利をえた。
この戦勝後、多くのハンガリー人たちは連合軍が引き続いて戦闘を続け、ハンガリーからオスマン帝国を完全に追い出すことになるだろうと考えていた〔Kontler; A History of Hungary. 177.〕。しかしレオポルト1世の関心は、後にスペイン継承戦争を引き起こすことにつながるハプスブルク・スペインの後継者問題に向けられていた。レオポルトは東方辺境地域は早々に以前の勢力均衡状態に戻し、スペイン王位をめぐって以前から続いていたフランスとの抗争に集中すべきだと考えるようになり、もはや東方地域で戦闘を続行する必要はないと判断した。さらに戦争が続けば、オスマン帝国が年内に援軍を送り込んでくるのは明らかであり、レオポルトにとってこれ以上の延長戦は危険なだけだった。オスマン帝国との問題を手っ取り早く解決すべく、レオポルトはヴァシュヴァールの和約に調印した。
オーストリアとハンガリーが勝者だったのにもかかわらず、和約の内容はオスマン側に非常に有利なものだった。ハプスブルク政府はオスマン政府の傀儡アパフィ・ミハーイ1世をトランシルヴァニア公と認め、さらにレオポルトは和約成立後20年間は毎年20万フローリンをオスマン政府に支払うことが取り決めされた。は、ハンガリー人貴族たちは屈辱的な条約内容に憤慨した。レオポルトはヴァシュヴァールの和約締結によってスペイン問題に集中することができたが、ハンガリー人たちは2つの帝国の間で分断されたままであった。さらに、この和約はハンガリー人大貴族の間に、ハプスブルク宮廷はまるで自分たちを見捨てて独立自衛状態に追い込み、自分たちでトルコ人の進出を食いとめさせようとしているようだ、という印象を抱かせた〔Ingrao: The Habsburg Monarchy 1618–1815 p. 67.〕。その結果、多くのハンガリー貴族たちが、自国から諸外国の影響力を排除しようと決心した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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