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マキノ映画製作所 : ミニ英和和英辞書
マキノ映画製作所[-えいがせいさくしょ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 
: [せい]
  1. (n,n-suf) -made 2. make 
製作 : [せいさく]
  1. (n,vs) manufacture 2. production 
製作所 : [せいさくじょ]
 【名詞】 1. works 2. factory 3. plant
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
: [ところ, どころ]
 (suf) place

マキノ映画製作所 : ウィキペディア日本語版
マキノ映画製作所[-えいがせいさくしょ]
マキノ映画製作所(-えいがせいさくしょ1923年 設立 - 1924年 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。1920年代大正末期)の日本映画において活動し成功した、初期の独立プロダクションである。俳優だった衣笠貞之助を監督としてフル稼働し、大部屋俳優阪東妻三郎をスターにし、20代前半の若者たちを脚本家寿々喜多呂九平映画監督二川文太郎井上金太郎としてデビューさせた。
== 略歴・概要 ==

=== 横田支配からの脱出 ===
1923年(大正12年)6月1日、先駆的映画監督である牧野省三が設立した〔http://www.matsudafilm.com/matsuda/c_pages/c_de.html〕。
牧野が1919年(大正8年)に設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」は、牧野の独立に脅威を感じた横田永之助によって日活に吸収された。牧野もいったん日活の一監督に戻るが、ふたたび1921年(大正10年)に「牧野教育映画製作所」を設立、大活出身の20代の若者たちや国活の人材を得て、さらに俳優・衣笠貞之助を映画監督としてデビューさせ、「教育映画」の枠も取り払った自主製作・自主配給の力をつけ、満を持してこの「マキノ映画製作所」に改組した。牧野は本格的に監督および映画プロデューサーとしての仕事を続行した〔http://www.imdb.com/name/nm0538634/bio〕。また牧野は「マキノ青司」の名も使用した。撮影所は「牧野教育映画製作所」として1921年に京都市北区等持院北町の等持院境内に設立した「等持院撮影所」をひきつづき稼動、配給は「浅草大東京」をトップにひきつづき自主配給を行った。
改組第1回配給作品は、市川幡谷主演の『三好清海』、牧野省三監督の『弥次と北八 第一篇』、そして衣笠貞之助監督の現代劇『二羽の小鳥』の3本立て興行で同年6月1日に封切られた。3か月間フル稼働で毎週2-3本のプログラムを供給していたが、同年9月1日に起きた関東大震災で浅草を中心に興行ラインが壊滅、作品がストップした。日本全国でも9月に作品を供給できたのは松竹蒲田撮影所帝国キネマ(帝キネ)だけの5本きり、松竹は蒲田から下加茂へと移転すべく建設を開始した。混乱に乗じた日活の横田が、大手他社によびかけ、マキノを中心とした独立プロ排撃の動きに出た〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「牧野省三」の項(p.360-363)を参照。同項執筆は田中純一郎。〕。マキノは東京府下豊多摩郡淀橋町角筈成子坂下(現在の新宿区西新宿8丁目)の「成子不二館」をトップに公開するようコンバート、年内をしのぎ、さらに同年11月には「マキノキネマ株式会社」を設立〔立命館大学の「京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト」サイト内の「等持院撮影所 」の記述を参照。〕、西陣に直営館マキノキネマをオープン、独自のチェーンを組み始めた。
年末12月31日公開の正月映画として、金森万象監督の『青春の悲歌』を「成子不二館」に、おなじく金森監督の『祇園情話 蕾のまゝ』と後藤秋声監督の『男が妻を選ぶ時』の2本立て番組を復興後の浅草に建った「浅草オペラ館」にきっちり供給した。さらには明けて1924年(大正13年)の正月、1月2日、牧野省三・沼田紅緑監督の『恐怖の夜叉』で復興した「浅草大東京」に復帰した。平行して不二館・オペラ館番組も供給し続けた。同月、日活・松竹・帝キネ・マキノの4社で、検閲の統一や配給制度の確立、引き抜き防止等を目的に「日本映画製作者協会」を設立した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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